第12回大会は、アメリカ大陸を北から南に縦断するという、大胆なコースをたどったものでした。
北は北極圏のバロー(アラスカ)。
南は『南米大陸の南の果て』ということで探したところ、人間が住む最南端は、フェゴ島(アルゼンチン)にあるウィシュアイアという街である事がわかりました。
この島はマゼラン海峡を越えた先にあり、地球1周を試みるヨットマンはみんなお世話になる街だということです。
となれば、どんな街なのか調べる為に、ロケハンに行きました。
我々が訪れたのは、春の早い時期でした。
冬の間は1日中真っ暗な暗黒夜なのですが、春ともなれば日射しも明るくなります。
といっても夜が明けるのは午前10時、陽が暮れて暗くなるのが午後3時。
1日で明るいのは5時間しかありません。
なんとこの街に住み着いていた日本人がいたのです。
そこで我々は、彼に現地での案内を兼ねて、スタッフに加わってもらったのです。
彼は30代の青年で、自らの車を出して案内をしてくれました。
北の果てのバロー(アラスカ)に比べると、緑の樹もありますし、町は西洋文化が浸透しているようで、木造の2階建て、3階建てのカラフルな商店や住宅が並んでいます。
また、街の中には車も結構な数が走っているようです。
我々は朝の8時頃ホテルを出発しました。
まだ夜明け前で、辺りは真っ暗です。
それから、島の中をあちこち走り、景色の良い撮影スポットを探しました。
短い日照時間はアッという間に暮れて、さて街へ帰ろうという時です。
車が突然プスーンという音と同時に動かなくなってしまったのです。
聞けば、街までの距離は相当あって歩いて帰るのは無理との事です。
春とはいえ、気温は0℃を下回ってマイナスです。
我々は幸い防寒コートを着ていましたが、ヒーターの無い車は寒さが応えます。
通りがかりの車に助けを求めようとしましたが、考えたら2、3時間の間、他の車とすれ違った記憶がありません。
つまり、街の中以外には人家のない島なので、人里を離れた場所を車が走る事は少ないのです。
島の中に街が点在しているのであれば、それを結んで車も移動するでしょうが、街が1つしかないのですから、陽が暮れたら観光にしても何も見えないので、移動する人は居ません。
当時は、今と違って携帯電話も無い時代だったので、連絡のしようがありません。
すると案内の青年が
「歩いて一時間くらいの場所に、夏の間だけ開いている牧場がある。
もしかしたらそこに電話があるかもしれない」
というのです。
そして彼は我々を真っ暗な道路に残して、闇の中に消えていきました。
車に取り残されたK氏と私は、腹は減るし、心細いし、、、
鞄を探ると、K氏がいつでも携帯しているウイスキーのボトルがあり、中身も半分ほど残っています。
それから飛行機のサービスで出される、ピーナッツとクッキーの袋が幾つか出てきました。
我々は、真っ暗い車の中で、身体を温めるために酒をチビチビ飲みながら彼の帰るのを待ちました。
「ひょっとすると、遭難したのかもしれないぞ」
気持ちは焦って、幾ら飲んでも酔うような状況ではありません。
待つ事2時間余り、彼がガッカリした表情で帰ってきました。
「牧場の電話機は取り外されていました」
「じゃ、どうなっちゃうの?」
「大丈夫。明日の朝になれば、捜索隊が出るでしょう。それまで寒いけれど我慢しましょう」
ボトルのウイスキーはすでに空っぽです。
「ああ、神様!」と天を仰いだその時です。
真っ暗闇の前方に、車のヘッドライトがポツンと見え、次第に近付いてくるではありませんか。
我々3人は車から飛び出し、無我夢中で道路の真ん中で両手をぐるぐると回し、助けを求めました。
彼らは道路整備のパトロール車でした。
彼らに車の点検をしてもらったところ、なんとガス欠だった、というお粗末なおまけ付き。
こんな深夜まで悲壮な体験をした、と思いながら時計を見ると、まだ午後7時を過ぎたばかりです。
夕方のちょっとしたトラブルに、3
ジャズの本場へ演歌で殴り込み
第15回ではジャズの本場、ニューオリンズに行きました。
この街では、街角を曲がる度にジャズが聞こえてくると言われます。
だって、ジャズはこの街で生まれ育ったのですから、無理も有りません。
フレンチ・クオーターのバーボン・ストリートといえば、古きよき時代のフランス風の建物が並んだ素敵な町並みでした。
↓フレンチ・クオーター
↓バーボン・ストリート
(その後、2005年の8月に超大型のカトリーナ台風でニュー・オリンズの街が壊滅的に破壊されたニュース映像を見ましたが、どこまで復元されたのでしょうね)
夜ともなると、通りのあの店、この店から軽快なジャズのメロディーが流れてきます。
そこで、我がスタッフは
「今夜はここで日本の歌を披露してやろう」
と相談がまとまりました。
「今夜はここで日本の歌を披露してやろう」
と相談がまとまりました。
我らが泊まったホテルの2階のバルコニーは、バーボン・ストリートに面しています。
美術を担当するグループが、即席でステージのセッティングをしました。
カメラマンはストリートに三脚を立て、カメラが何台もステージを狙います。
テレビの撮影をしているような状況を作り上げました。
勿論、お遊びですからテープは回していないのですが、道行く人々は何が始まるのかと、野次馬が集まってきました。
我がスタッフの中には、芸達者が何人も居ます。
その上みんな負けず嫌いと来ているから出演者には事欠きません。
その上みんな負けず嫌いと来ているから出演者には事欠きません。
只のカラオケではつまらないので、物マネの演歌大会をやろうと相談がまとまりました。
通りに向けてスピーカーがセットされ、照明もバッチリ当て、音楽番組の始まるような雰囲気が出来上がりました。
そしてジャズの街のメインストリートで、演歌物マネ大会が始まったのです。
物マネですから大袈裟なジェスチャーで、北島三郎から森進一、八代亜紀、辺見まりと歌が進むに連れて、ホテルの前は黒山の人だかりになりました。
ジャズの本場で、演歌が大暴れしたというバカバカしい悪戯ですが、スタッフも長いこと旅を続けていると、たまにはこうした息抜きも必要なのです。
ラピッドシティ の親日家
4人の大統領とは日本人でも知っているワシントン、ジェファーソン、ルーズベルト、そしてリンカーンです。
この地では大統領をはじめ、アメリカの歴史的な有名人の子孫をゲストに招いて「ご先祖さん当てクイズ」というのをやりました。
例えば「黒船」で日本にやって来て徳川幕府に開国を迫ったペリー提督、野球ファンにはお馴染みのベーブルース、或いはリンカーン大統領、そしてアパッチ族のジェロニモ酋長、札幌農学校で教えたクラーク博士といった人達の子孫さんが出演してくれました。
町の中で日本食レストランを発見、店先には焼鳥、おでん等と書かれた赤い提灯がズラリとぶら下がっているではありませんか。
久しぶりに日本食に在り付けるというので、喜んで飛び込んだのは言うまでもありません。
ところが中に入ってメニューを見ると、日本食らしき料理は何もありません。
「外の提灯は何だ?」
と尋ねると、
「オリエンタル・ムードのインテリアだ。
気に入ったかい?」
と平然としています。
聞けばこの店のオーナーは元軍人で、日本に駐留していた時代に、日本の娘さんと知り合って結婚したのだと言います。
間もなくその女性が現れ、我々日本人を見つけるや懐かしさで、飛びついて来ました。
その頃は日本人旅行者も少なく、ましてやサウスダコタ州などという田舎の街に日本人が訪れるなどという事は、滅多に無かったのでしょうね。
実は彼女と同じような日本人妻が、この辺りには数人住んでいて、直ぐに電話を掛け、ご主人共々ワイワイと集まってきました。
それからは、初対面の我々を囲んで宴会状態になりました。
それからは、初対面の我々を囲んで宴会状態になりました。
すっかり打ち解け、次にロケで来る時には
「大勢のスタッフを連れてまた来ます」
と約束をして別れたのです。
「大勢のスタッフを連れてまた来ます」
と約束をして別れたのです。
そして二ヵ月後、我々は再度お店を訪ねました。
其の日は、結構お客が込み合っていました。
ところが、我々の顔を見るや大喜びの挙句、お客さんに
「今日はこれで閉店です。
お勘定はサービスです」
とみんなを追い出してしまったのです。
追い出された方も、料金がタダとなれば喜んで出て行きます。
お勘定はサービスです」
とみんなを追い出してしまったのです。
追い出された方も、料金がタダとなれば喜んで出て行きます。
我々の方は、スタッフが30人近くいましたが、中には料理自慢も沢山います。
お店の方では、
「皆が作りたいものを自由に作ってよ。
厨房を開放する」
と言い出したのです。
「皆が作りたいものを自由に作ってよ。
厨房を開放する」
と言い出したのです。
「それではお言葉に甘えて」
とばかり、近くのスーパーに買出し部隊が出かけ、日本食になりそうな材料を大量に仕入れてきました。
とばかり、近くのスーパーに買出し部隊が出かけ、日本食になりそうな材料を大量に仕入れてきました。
そしてレストランの厨房を独占、すき焼き、焼鳥、茶碗蒸しから、ブリの照り焼き、鮭の塩焼き、と懐かしの日本食のオンパレードで、大パーティーとなったのです。
当然の事ながら、先日の日本人妻と元軍人の仲間たちも集まってきました。
元軍人のアメリカ人のオジさん達も、懐かしの日本料理に大喜びで、厨房に入ってきて、手伝いが始まりました。
日本人妻のおばさんたちは、久々に思いっきり日本語が喋れるので大興奮。
ご主人達が英語で話しかけても、
「うるさいわね。日本語で喋りなさいよ」
と相手にしません。
仕方なく、片言の日本語が飛び交い、奇妙な、しかし心温まるパーティーが夜遅くまで続いたのでした。
灼熱のデスバレー(死の谷)で目玉焼き
アメリカに50近くもある国立公園の中で一番広いのが、このデスバレーです。
↓death-valley デスバレー
しかも、西半球で最も低い場所にあって、海抜下85.5メートルというのですから海面よりも85メートル以上も低いのです。
そう言えば、岩山の途中に、白い線が描かれていて「シー・レベル」という表示がありました。
そこは恐ろしいほど原始的、しかも幻想的な景色であり、太古の地球か、他の惑星にやってきたような荒涼たる眺めが広がっています。
それよりも、何より恐ろしいのは、暑い暑いを通り越して「熱い」という言葉がピッタリなんです。
真夏にはジリジリと太陽が照りつき、50℃まで上がってしまうのですから、とても耐えられるような環境ではありません。
我々のウルトラクイズは、このデスバレーでクイズをやろうというのですから、まるでサド軍団のようなもんです。
我々は、この土地が如何に熱いかをテレビの画面で見せようと、石の上で目玉焼きを作ろうと試みました。
しかし流石に目玉焼きは出来ませんでした。
そこでお遊びにと、石をバーナーで熱して、そこへ生卵を割って乗せたのです。
すると見る見る卵は変質して目玉焼き状態が出来ました。
すると見る見る卵は変質して目玉焼き状態が出来ました。
そのとき、国立公園を管理しているパークレンジャーのオジさんがやって来て
「オーッ、こいつはびっくりだ!」
と目を丸くしそれを見ています。
と目を丸くしそれを見ています。
そこでオジさんをからかってやろうと、誰かが言いました。
「日本では温泉に卵を浸ければ温泉玉子。川原の石で卵を焼けば、石焼玉子と呼び、みんなやっているよ」
するとパークレンジャーのオジさんは、すぐにカメラを持ち出し、この様子をパチパチいろんな角度から撮影しています。
「そんなに写してどうするんですか?」
と思わず聞いてみたのです。
と思わず聞いてみたのです。
すると仕事熱心なオジさんは言いました。
「ここには観光客が多いのでね、こうやって石焼玉子を作って楽しんでもらおうと思うんだ」
とニコニコ。
とニコニコ。
「ええっ!そんな?」
今度はこっちが仰天する番です。
今度はこっちが仰天する番です。
「まずはパンフレットを作って、インフォメーション・センターに置こう」
と無邪気に喜んでいます。
と無邪気に喜んでいます。
「ゴメーン!オジさん。これはジョーク、ジョーク」
と平謝りをしたのでした。
と平謝りをしたのでした。
「良いアイディアだったのになぁ」
その時の、オジさんのガッカリした顔。
本当に、このパークレンジャーは人の善い真面目な公務員さんだったんですね。
置き引きの名人芸に出会う
海外旅行の経験者は、皆さん口を揃えて
「日本ほど安全な国はない」
とおっしゃるようです。
「日本ほど安全な国はない」
とおっしゃるようです。
確かに、その通りだと思います。
ウルトラクイズで世界中を回った経験で、スタッフをはじめ、私自身を含め泥棒の被害には、数え切れないほど遭いました。
その中でも忘れられないほど見事な置き引きに会った時のお話をしましょう。
あれはアルゼンチンの首都、ブエノスアイレスの空港、エセイサ国際空港での事です。
その時はロケハン(撮影の為の下見)で、我々は三人の旅でした。
アルゼンチンでのロケハンを終え、次の目的地に向かう時でした。
朝早く出発のために、暗いうちに空港に着きました。
広い広い空港のロビーには、ほとんど人影が見当たりません。
「我々の乗る飛行機は、何時から受付が始まるのかな?」という会話が三人でありました。
航空会社のカウンターは遥か50~60メートル先にあります。
と、若いプロデューサーのO氏が
「ボクが聞いてきます」と言うと同時に、肩に掛けていたショルダー・バッグを残る我々二人の間に置いて、走って行ったのです。
「ボクが聞いてきます」と言うと同時に、肩に掛けていたショルダー・バッグを残る我々二人の間に置いて、走って行ったのです。
多分バックの中身が重かったのでしょうね。
普通ならそんな無用心な事はしないのですが、早朝でロビーには人影が無いので油断してしまったわけです。
残された私とK氏は、彼のバックを足元に置いて、向かい合って雑談をしていました。
と、その時私の肩をポンポンと叩く人が居たので振り返ると、上品な女性がスペイン語らしき言葉で、しかも早口で話しかけてきました。
何かを訊ねているようですが、サッパリ意味が解りません。
そこで「英語で話してくれませんか」というような事を言ったような気がします。
ところが相手は身振り手振りで一向に質問をやめないのです。
その時、私と雑談をしていたK氏にも同じくスペイン語で話しかけてきた女性が居たようで、二人共その対応で注意が散漫になっていたのでした。
やがて二人の女性は我々と話が通じないので、あきらめて立ち去りました。
我々も
「参ったね。スペイン語で何言ってるのか解らないや」
ってな事を話して、O氏の戻ってくるのを待ちました。
間もなく彼が戻って来て、
「あれっ!ボクの鞄は?」
というのです。
足元を見ると、見事に鞄が消えていたのです。
「あっ、やられた」
と気が付いた時には後の祭りです。
我々がスペイン語で四苦八苦している時に、側を一人の男が通り過ぎた様な気がします。
つまり、彼らは三人組の置き引き犯だったのです。
我々は慌てて、彼らが消えた暗い駐車場に向かって走りました。
しかし、車の間には人影が見当たりません。
鞄の中には、彼のパスポートと、ロケハンの費用として多額の現金が入っていたのです。
警察に届けて知ったのですが、彼女たちは「コヨーテ団」と呼ばれる窃盗グループで、
「普段はナイフや拳銃で武装しており、捕まえようとしたら殺される所だった。
あんた達は運が良いよ」
と慰められたのでした。