自由の女神の問題は予測不可能なのか?

メリカ横断ウルトラクイズの象徴とも言って良いのは「自由の女神」でしょうね。
ウルトラクイズの第一声が
「ニューヨークへ行きたいかーッ!」
で始まるように、ニューヨーク自由の女神はあの番組と切っても切れない関係にありました。

自由の女神2

2回目から、ウルトラクイズの第一問は自由の女神に関する問題に定着したため、挑戦者の皆さんも自由の女神を徹底的に研究するようになってしまったのでした。

それだけに、問題を制作する我々も、地獄のような苦しみを味わう事になってしまいました。
即ち、或る頃から、スタッフと挑戦者の自由の女神を巡る知恵比べになってしまったのです。
前にもこのブログで触れた事がありましたが、全国の大学にクイズ研究会が誕生していたので、彼等だって自由の女神の情報は集めているはずです。
そんな中で最も加熱したのが、第12回の年だったのではないでしょうか?
故なら、この年には東京ドームが完成し、ウルトラクイズの第一次予選が、それまでの後楽園球場から東京ドームに移ったのです。
となれば、割と思いつきやすいのが、
自由の女神はこのドームの中に建つ事が出来るか?
という問題でしょうね。
それは東京ドームの天上の高さが解れば、自由の女神の身長と対比すれば、答えは簡単に割り出せます。
そんな単純な問題で、ウルトラクイズの第一問が突破出来るなんて考えたら、「甘い甘い」という戒めの意味も込めて、福留アナの第一声が挑戦者の予想を打ち壊したのです。
「東京ドームの天上の高さが61・69メートル。自由の女神の足からトーチまでが46メートル、スッポリ入ってしまうのです。
自由の女神が、この東京ドーム、ビッグエッグの中に立つと、天上につかえる、○か×か、まさかこんな問題を予想してないだろうね」

といった挨拶で、予測問題を冒頭で一機に吹き飛ばしてしまったのです。
因みにこの時の第一問の問題は
「自由の女神を、日本語で『自由の女神』と訳したのは、第二次大戦の後である。○か×か」
と言う問題でした。

自由の女神

解説
問題は出来たものの、その確証を掴むのに我々は大変な苦労をしました。
現代のように情報過多の時代と違って、戦前の資料で自由の女神という記述が中々見当たらないのです。
やがて訳知りのオジさんが、戦前は「自由の女神」なんて呼んでなかった、と言い出したり調査も混乱したのです。
その内に昭和3年に発行された「大日本百科全集」の中に、ニューヨークには「自由の女神」の像が建っているとハッキリした記述があったのです。
更に調査を進めると、明治19年11月26日付けの新聞に、自由の女神の建造の第一報を知らせる記事があり、既にこの時から「自由の女神」と記されていたのでした。
従って、正解は×でした。

アメリカ人は遊びの名人

メリカ横断ウルトラクイズでは、ロケ、ロケハンと毎年2ヶ月近く、アメリカ各地を走り回りました。
ロケの1ヵ月は、きついスケジュールで各地を移動するので、スタッフは肉体的、精神的にも大変な重労働だったのです。
それに比べて、ロケハンはスケジュールも楽で、楽しいものと誰もが思っていたようですが、実はこれも結構大変な旅だったのです。
ケハンの使命はロケを行なう場所の下見と確認です。
資料で調べたところが、実際に撮影で使えるものなのか、目で見て確認しなければなりません。
また、新しい候補地を発見するのもロケハンの仕事です。
あらかじめ、ルートは決まっているものの、そのコースでどんなクイズを実行すれば楽しい番組が成立するのか、それを考えながら各地を見て歩くのですから、責任は重大と言ってもいいでしょう。
9回でコースに入れるべき場所として、ニューメキシコ州を車で移動している時でした。
見渡す限り、地平線の彼方までが広い平地のこの州では、どんな場所で何をやれば良いのか、考えながら車の旅をしていました。
事前の調査で、候補に挙がっていた何箇所かを見たのですが、決定的な面白さが出せるという場所に行き当たっていませんでした。
を走らせながら地平線の彼方を眺めていると、空にぽっかりと色鮮やかな気球が浮かんでいたのです。
そういえば、何時間か前にも同じような気球を見た気がしたのです。
そんな事を雑談で交わしながら、車を走らせてアルバカーキという町に到着しました。
い大地の中に忽然と現れたスペイン風の街、それがアルバカーキだったのです。
海も無い、山も無い、有るのは広い大地だけ、という現地の人達は、空に目を向けたのだそうです。
大空を鳥のように風に乗って、アチコチ移動する遊びを見つけたのです。
日頃退屈していた人々が、熱気球に熱中するのには時間がかかりませんでした。
隣の人が始めれば、あっという間に伝染するように広がって行ったのだそうです。
特に熱気球は家族で一緒に楽しめるという性質があります。
そこで、一家に一台熱気球! とばかりブームを呼ぶような勢いで、参加者が増えていったのでしょう。
これはたちまち州全体に広がって、毎年世界選手権がこの地で開かれるまでになっていたのです。

↓Baloon Fiesta park(バルーン・フィエスタ・パーク)

そうと解れば、もうこの地で行なわれるクイズ形式はこれしかありません。
そうです、毎度体力の限界に挑戦する「ばら撒きクイズ」に決定。
番の日、朝早く会場を訪れた我々は眼を疑うような光景に出会いました。
地元の熱気球愛好者の団体が協力をしてくれたのですが、赤、青、黄、緑。と色とりどりの熱気球が大空を一杯に埋め尽くされていたのです。
その数の多さは言葉では言い尽くせないほどでした。
我々も、挑戦者も熱気球の迫力に圧倒されながら、ばら撒きクイズが実施されました。
戦者が走り回った草原は、トゲトゲのがいっぱいという悪条件。
2問勝ち抜きというルールで行なわれ、大空一杯に浮かんでいる熱気球に見とれていると、忽ちトゲトゲの棘にぶつかり、傷を負ってしまうのです。
テレビをご覧だった皆さんは、壮大な熱気球の光景に驚かれたでしょうが、挑戦者には、それはそれは難行苦行クイズ会場だったのでした。

大規模なロケ隊

メリカ横断ウルトラクイズはテレビの良き時代に誕生し、夢を叶えてくれる番組として一時代を築いてきました。
今のテレビ界では、とても実現出来ないようなアイディアでも、それが面白いとなれば、たっぷりとお金を掛けて実現させてしまったのでした。
そのため一番組で予算を掛けるテレビ番組として、ギネスブックにも登録された事があったという話を聞いた事があります。
レビ局の担当プロデューサーは、毎年予算を大幅に超えてしまうので、放送が終ると、始末書を書くのが毎年の恒例行事になっている、と笑って話していました。
そんな中で、番組は大当たりをしていたので、皆さん出世街道を駆け上って行ったのは、業界ではよく知られたお話です。
それでも予算は縮小されるどころか、膨らむ一方だったので、世の中が不況になった途端、打ち切りという運命をたどったことになります。
て、全盛期にどのくらいの派手なロケを行なっていたのか、その一端を示すエピソードをご紹介します。
第8回でノースダコタ州を訪れた時の事です。
この辺りは360度見渡す限りが大草原です。
その昔、アメリカの開拓者達はこの草原を幌馬車に揺られながら、西へ西へと向かったと資料に残されていました。
ならば、我々も開拓者達の体験を味わいながら、クイズをやりたいと言う意見が出されました。
こで用意されたのが、8台の幌馬車と本物のカウボーイ達です。

幌馬車1

早朝の5時に村を出発し、半日以上も幌馬車に揺られながら大草原の中でクイズが行なわれたのです。

勿論、そうした状況を俯瞰で撮影するためにはヘリコプターが上空に待機しています。
幌馬車でも、現実に動くものを全国から探し出して用意するのですから、その費用も莫大にかかったはずです。
ロケハンでは、近郊で動く幌馬車を見つけて、それを確認する作業もしたり、忙しく走り回らなければなりません。

幌馬車3

幌馬車4

こでは挑戦者8人が8台の幌馬車に分乗して、早押しクイズで知力を競ったのでした。
思い返せば、確かに大規模で視聴者の想像を超えるような試みを平然とやってしまう、それが「アメリカ横断ウルトラクイズ」だったのです。
テレビ界にも本当に良い時代があったのですね。

幌馬車2

世界最高峰のレース場で

メリカ横断ウルトラクイズでは、日本人に知られた場所には出来るだけ行ってみようという事で、アチコチを訪ねました。
第8回にはインディアナポリスが、チェックポイントに決まったのです。
インディアナポリスと言えば「インディー500」の自動車レースが有名です。
このレースは1911年から始まったカー・レースで、数ある自動車レースの中でも最高峰と言われ、モータースポーツ・ファンの憧れとなっています。

indy500

の地を訪れたからには、クイズ会場はやっぱり自動車レースの行なわれるサーキットでなければ意味がありません。
このサーキットは、35万人を収容出来る世界最大のスタジアムなのです。
一度のスポーツ・イベントで、これだけの観客を収容出来る会場は他に見当たりません。
時は日本人でこのレースに参加した人間が1人もいなかったので、それなら我々が日本人として最初にこのコースを走ってやろうじゃないか、但し、車ではなく自分の足で。
と、いうことで行なわれたのが「ジョギング早押しクイズ」でした。
トレーラーに早押しボタンが設置され、挑戦者はコースを走りながらクイズに答えるというものです。
問題は当然の事ながら、最初はご当地問題としてインディー500に関する問題が出されました。
問・500マイルと言ったら東京から、大阪、広島、山口のうちどれ?
と言ったような問題です。
答・広島が正解でした。
この調子で、今この地でクイズを行なうならば、どんな問題が出されたでしょうか?
一寸考えてみましたのでお答え下さい。

問・日本人でこのインディー500に出場したレーサーは何人いるでしょう?

答・10人。
問・では、日本人で最初に出場した選手は誰?

答・ヒロ松下。(1991年のことです)
 
問・日本人選手で最高の順位を獲得した選手は誰?

答・高木虎之介選手。(2003年に5位入賞でした)

問・昨年、日本人で優勝争いを演じた選手は誰?

答・佐藤琢磨選手。
(決勝レースでトップ争いを演じ、最終ラップでスピンをしてクラッシュ、惜しくも優勝は逃しました。17位という無念の結果でしたが、このレースの模様は世界に配信され、ご覧になった方も多かったのではないでしょうか?
ルトラクイズではタイムリーな問題を重視しましたので、今年だったら多分あのような問題が出された事だと思います。
こでの罰ゲームは、誰でもが思うF1カーで、「恐怖のスピード体験」というアイディアが多かったのです。
しかし、それには危険が伴うと言う理由で却下され、「インディ500マンボ」という語呂合わせの馬鹿馬鹿しいものに決まりました。
万歩計を腰に付け、500万歩歩いて帰国と言うものでしたが、ただ歩いただけでは能がない。
そこで、あの懐かしのマンボを踊りながら、空港へ向かうと言うオマケを付けたのでした。

インディ500

果たせなかった絶景の罰ゲーム

メリカ横断ウルトラクイズでは、毎回罰ゲームが話題になり、我々も常にどのような罰ゲームが出来るのか、頭を悩ましていました。
第9回ヨセミテ国立公園に行った時のお話です。
イズ会場はヨセミテ国立公園でのポイントとも言える、絶壁エル・キャピタンのすぐ下に位置する広場に決まりました。

エル・キャピタン

この絶壁は、高さが1,100メートルという、世界でも珍しい一枚岩なのだそうです。
雄大な大自然の中で、思い切り大声を張上げたらさぞやすっきりする事だろう、とこの地では大声クイズをする事に決まりました。
イズ会場が決まれば、次は罰ゲーム案の検討ということになります。
アイディアとして一番多かったのは、ロッククライミングを体験させるというものでした。
というのは、このエル・キャピタンはシーズンともなると、毎日ロッククライミングをする人達が訪れ、多い時には同時に数十人が登頂に挑戦しているという情報がありました。
世界のより難しい山のクライミングに向けた、格好の練習場所になっていたのですね。
とはいえ、
「素人に挑戦させるなどは、もっての他」
という専門家の声があり、この案は却下されてしまったのです。
(当然といえば当然の判断です)
局この地で敗れた敗者の2人には、大声が出し切れていなかったという理由で、声の出し方を根本的に訓練する場を与えようと言う事になりました。
負けたのは大声が出せなかった、男女の2人さん。
彼らに与えられたのは、何と森林を走るSL列車の人間汽笛になってもらおうという罰ゲームでした。
SL列車の最前部にしっかりと縛られて固定され、機関手の小父さんの合図でピーポー、ピーポーと大声を張上げて、障害物に知らせなければならないという情けない訓練です。
の声を聞いていたのは、狸や狐、熊など森に棲む動物達だけだったようです。
「勝てば天国、負ければ地獄」を地でいったような罰ゲームでした。

ヨセミテ罰ゲーム