アメリカ横断ウルトラクイズの問題を振り返って見ると、番組の成長の度合いが解ってきます。
今から凡そ40年前の昭和52年、第1回予選会が開かれた時にはたったの400人が、後楽園球場に集まりました。
勿論、球場を借り切る程の予算も無く、巨人軍の練習風景を見ながらスタンドでの撮影でした。
当時はON砲が現役時代で、特に王貞治選手のホームラン世界記録が達成されるか? 連日スポーツ紙を飾っていました。
その、王選手達の練習を見ながらの第1次予選だったので、挑戦者には格別の思い出になった事でしょう。
因みに、756号の達成は、この年の9月の事で関連問題は多数出されています。
第1回が話題になったため、翌年には我々も水道橋の後楽園球場を借り切って球場を走りながらの予選でした。
以後、右肩上がりで挑戦者の数も増え、第7回には1万人に達成したのです。
これは、放送上の数字で、実際はパスポートの取得、1カ月間の休暇が必要など、細かい制約がありました。
参加希望者も、こうした規約が取れず、泣く泣く諦めた人も多かったと推測できます。
さて、この第7回は視聴率的にも過去最高、34.5%との驚異的な数字を出し、番組の熟成期とも言えます。
こうなると、我々スタッフも更なる進化を狙い、あらゆる可能性を検討したのです。
空中でのクイズは不可能なので、水中でのクイズはどうか? 冗談のような企画が真剣に討議されました。
それが実現したのは、翌年の第8回。バハマでの海底早押しクイズでした。
世界初、しかもカメラマンは全員スキューバーの訓練をし、免許を取得しての撮影でした。
挑戦者は普段と同じように、大きなスーツケースを携えて海底に勢揃い。珍妙にして印象的な姿。
こうしたクイズも成熟期ならではの成果だったのです。
翌年は決勝の地をニューヨークからパリへ移動など、アイディアはエスカレートしていきました。
北極圏から南極圏まで南北アメリカ大陸縦断、第12回の突飛な企画も、この時代の会議で出された案でした。
アメリカ横断ウルトラクイズは、記録よりも記憶に残る番組を! これが企画の基本的狙いでした。
当初の目標を達成できたのは、第7回、8回の成熟期があったからだと思います。
第4回ウルトラクイズの本の8ページに「11751名の応募があり、うち2707名が後楽園球場に集まった。」という記述がありました。僕の家にたまたまあったので引っ張り出してみました。当時は応募しても4~5人に1人しか後楽園球場に来なかったのですね。
やはり、この本の最後にある参加規定を見てもパスポートや渡航ビザを自費でとらなければならず、1か月休むのが大変だということがよく分かります。これは今の世の中にウルトラクイズがあったとしても参加できない人がたくさんいると思います。
応募しても書類審査で不合格になった人もたくさんいたのでしょうね。
他にも第10回では南北アメリカルート2つに別れてニューヨークを目指す、第14回ではタヒチに行ったこと、アメリカ大陸をバスのみで移動するなど今でも懐かしく思い出します。これからも体が続く限り当時の問題を回想して今の世の中を鋭く斬っていってほしいと思います。
ご返事です。
古いテレビ番組なのに、様々なルートや形式を覚えていて下さり有難うございます。
当時のスタッフも数が少なくなっているので、代表してお礼を申し上げます。
これからも出来る限り頑張りますので、宜しくお付き合いください。