夜襲と呼ばれた男

メリカ横断ウルトラクイズには、数多くのスタッフが長年に亘り関係しました。
初期に新人社員でADとして参加したK氏などは、途中2、3年番組を離れた時期がありましたが、復帰後は番組のチーフディレクターに昇進し、番組を牽引した功労者の1人といって良いでしょう。
このK氏より数歳先輩で、K・N氏というディレクターがいました。
彼は第1回から既にディレクターで、数多くの番組を手掛けており、私が知り合った当初は新進気鋭のディレクターでした。

は、国立大学の出身者で、頭脳明晰なのはみんなが知るところでした。
でも、この種の人間に有りがちなタイプで、単純な話も、彼が加わると途端に難解な日本語が会話の随所に入り込み、更に横文字がそれに加わるのですから、理解するのに苦労してしまいます。
しかも、会話は理づめで話をするので、一寸でも理屈に合わないと、相手を追及するのが癖になっているのです。
「そんな事、どうでも良いだろう」と言いたい話でも、いい加減に妥協はしない、というポリシーがあるのか簡単に了承してくれないのです。
ですから、彼と話をするのは「疲れる」というのが、周囲の評判でした。

でも、当時の彼は、まだそれほどの地位に付いていなかったのですが、将来このような人間が上司になったら、部下は気の休まる事がない、と感じさせていました。
このようなタイプはサラリーマン社会では出世するもので、その後、彼は重要なポストに登りつめ、最後は系列テレビ局の役員になったという話を、風の噂で聞いた事があります。

れは兎も角、このK・N氏の若き頃、私は随分悩まされた経験があります。
というのは、彼は仕事熱心で、自分の担当するチェックポイントが近付くと、頭の中であれこれと思いを巡らせるのでしょう。
それを自分1人で考えるのなら自由ですから、どんどん考えたら、と言いたいところです。

ところが、彼は自分の疑問点を私に相談してくるのです。
最初は、チーフディレクターや他のディレクターも交えて話し合いが行われましたが、そのような事は、事前の会議で全て解決してロケに来ているわけです。
今更蒸し返しても、どうにもならないような疑問点をまた考えているので、みんなは呆れて、私に任せて自分の部屋に戻ってしまうのです。
でも私は、番組の構成者という立場ですから、一応相談に乗っていました。

ところが、いつの頃からか、これが恒例行事になってしまったのです。
本番の前の晩は、必ず夜中に私の部屋をノックして、相談に現れるようになったのです。
その内に、誰が言い出したのか、彼の夜中の訪問を「夜襲」と呼ぶようになり、それまで雑談をしていた他のスタッフも、そろそろ夜襲の時間だ、と私の部屋を退散していきます。

戦場の兵士の火銃による襲撃

と、案の定というか、予想通りというか、ドアのノックと共に彼が思い詰めた顔で現れ、疑問をぶつけて来ます。
手ぶらでは悪いと思ったのか、お酒を片手に「飲みながら相談しましょう」と現れ、時には酔っ払って眠り込んでしまう始末です。
私の部屋にはいつも構成者のアシスタントがいましたが、彼らも眠ることが出来ず困り果てていました。

他人の迷惑などはお構いなく、疑問点を解決するのが彼の目的ですから弁舌は冴え渡ります。
しかし、その相談のくだらない事といったらありません。
例えばクイズ問題の配列についてです。
「この順番では、○○さんが、1抜けするだろうから、それは回避したい。彼には誤答させ、もっと苦戦させた方が盛り上がるでしょう」
と、挑戦者の頭の中まで読みたがるのです。
だから、○○さんが、勘違いするような問題を、この辺に仕掛けてはどうか、と進行の展開を自分の頭の中で組み立て、そのように「落とし穴問題を作ろう」というような提案を本番前夜に出したりするのです。

誤解のないように書きますが、クイズの進行などは、いくら予想しても、その通り進む筈が在りません。
また、我々が特定の挑戦者を落とすような仕掛けをした事は、唯の1度もありませんので、念のため。
しかし、頭の良い彼は、そこまで計算して、その通りに進行させるのが、テレビ番組なのだ、
「制作者にそのくらいの高いビジョンが無くてどうします?」
と熱っぽく語るのです。
その内に、自分の言葉に酔いしれて、眠ってしまうのですから、この上ない迷惑な夜襲としか言いようがありません。

このK・N氏は、最初から10年以上ウルトラクイズを担当した後、他の番組に移って行きました。
その後、ヒット番組に恵まれ、出世街道を駆け上って行きましたが、彼の担当するテレビ制作会社の担当者は、みんなそのへ理屈に泣かされ、業界では難解な言葉を話す人、として有名人になっていました。
今では夜襲は、当時私への罰ゲームだったと思っています。

白昼の襲撃

クイズ好きのファミリーのお話し

メリカ横断ウルトラクイズはクイズ大好き人間の皆さんに支えられて、永年に亘って番組が放送されました。
中にはファミリーで番組を応援してくださった方も多かったと思います。
そのような中で、ファミリーで番組に参加したご家族が居たのは知っていましたが、今日はウルトラクイズに親子、兄弟で出場した方のお話を書いてみたいと思います。

自由の女神


てのデーターを調べる材料は手元にありませんが、でも、ファミリーで予選を通過した家族を調べたところ、なんと早くも第2回の時に既に2組の兄弟の方が、第一次予選を通過していた事がわかりました。
しかも、この2組のご家族
がなんとニューヨークの決戦で対戦していたのだから、調べた私もビックリしました。

ご当人達の了解を得ていないので、登場人物はイニシャルで書かせてもらいます。
このクイズ好きのファミリーは、その年に優勝したK氏(当時24歳)Mさん(当時27歳)のご兄弟です。
K氏は妹さんと2人の参加で、妹さんは成田のジャンケンで敗れていました。
一方のMさんは兄弟3人で参加し、お兄さんは成田のジャンケンで、お姉さんはサイパンで破れ、妹のM・Yさんが決勝まで勝ち残っていたのでした。
つまり、この2組のご家族は揃ってあの難関の第一次予選を通過していたのです。

ジャンケン1

ジャンケン2


ウルトラクイズ
に参加した皆さんは経験済の通り、あの○×クイズを通過するのは並大抵の事ではありません。

は、我がスタッフのチーフ・ディレクターS・K氏は自他共に認めるクイズマニアで、その彼が日本テレビの人事異動である年、ウルトラクイズの担当を離れた事がありました。
しかし、彼はウルトラクイズへの思いを捨てがたく、1挑戦者として東京ドームにやってきて、番組に参加したのです。
ところが彼はグランドまでは出ましたが、残念ながら途中で敗退してしまったのです。仮に、もし彼が通過したとしたら、余計な疑惑を生ませないためにも、辞退したことでしょう。

ルトラクイズの○×形式の法則を知り尽くした番組のチーフ・ディレクターでさえ、あの東京ドームを通過するのは至難の技という意味で、このお話を書きました。
その後、多くの大学に誕生したクイズ研究会の皆さんも、○×クイズの法則を良く研究したと言う話はクイズマニアの中では良く知られています。

従って我々も裏の裏を読むような問題を創り、挑戦者と知恵比べをする積もりで、戦っていました。
その位、難しい第一次予選を家族で通過したと言うのは、運だけでなく、本当にクイズに強いご家族なのでしょう。

当時K氏はクイズ界の有名人で、挑戦者の中でも優勝候補の呼び声が高かったようです。
しかし、対するMさんも負けては居ません。
準決勝のボストンでは4人の中で1抜けでニューヨークへの切符を手にしていました。
この2組のご家族の対戦は、家族対抗として、ウルトラクイズ初期の名勝負として、我々スタッフの脳裏に永く残っていました。

アメリカ横断ウルトラクイズは、知力、体力、時の運、をキャッチフレーズに永年番組を続けていましたが、現実にはクイズに強くなければ決勝地までは辿りつけません。
つまり、第一は知力なのです。
では 「体力」と「時の運」は何なの?
これは知力のある人を選ぶために仕掛けられた落とし穴だったのです。

放送作家の養成番組?

メリカ横断ウルトラクイズのテロップを見ると、最初に構成という文字が現れ、私達、番組構成者の名前が出てきました。
視聴者から見れば、テレビで構成という文字を良く見るけれど、一体どのような仕事をしているのか、理解できない方もいるのではないでしょうか?
これは、私の仕事でもあるので、本日はこの内容について簡単に書いてみたいと思います。

レビ番組の構成者は、職業欄では放送作家と呼ばれて歴史はテレビの創成期から存在しました。
本来は映画と同じようにテレビ番組の脚本を書いていましたが、番組の中にはドラマ以外にも、情報番組、音楽番組、バラエティー番組、ドキュメント番組など、分野も多岐にわたっていますので、それぞれに企画や内容に関わりながら、台本を制作する役割を担当します。

在の番組では構成者も1人ではなく、複数名が名前を連ねてますが、私達のウルトラクイズが開始された70年代には、1人ないし、2人くらいが一般的でした。
でも、番組が大型化するに連れて、多数の頭脳が必要になって、次第に増えていったのがテレビ番組の歴史と言えるでしょう。

達がテレビ番組に関わった頃には、構成者は1人でしたから、企画会議を経て、台本は1人で書くものと決まっていました。
でも、1人の能力には限界がありますので、ウルトラクイズのような番組では、毎回5~7人くらいの放送作家が参加していました。

初は、私が所属していた制作会社の企画でしたから、我々の作家グループが全員参加で、10人くらいは居たように記憶しています。
しかし、回を重ねる内に、マンネリを防ぐ目的で、新しい血を入れるように日本テレビから要求され、何人かの放送作家が参加してきました。
ところが、新しい人達は拘束時間と、要求の割りに報酬が安いと不満が出て、次々と脱落してしまったのでした。
その結果、5年を過ぎた頃には、全員が創設メンバーに戻って、以後17回まで、同じ釜の飯を食った仲間の作家が参加してくれました。

ルトラクイズのアイディア会議は、週に1、2回、3~4時間行われました。
この会議にはPが2人、Dが4、5人。ADが2人、構成者が5~7人、それに司会の福留さんも時間の許す限り参加していました。
一番組の会議としては、かなりの人数です。
そこで、前の会議で宿題になっていたチェックポイントのクイズ案が検討されます。

成者は、自分のアイディアをコピーしたものの説明をしなければなりません。
つまらないと、誰かが遠慮なく「没」と否定の声を上げます。
若い作家などは、業界の先輩達が挙げるこの声にビビってしまいます。
ウルトラクイズの会議では、このくらいはへっちゃらにならないと、1人前とは言えません。

中には何故「没」なのか、納得できずに反論して、険悪な空気に包まれる会議もありました。
でも、思い返すと、そうした熱い議論のあった時には、良いクイズ形式が誕生していたように思います。
例えば「大声クイズ」などは、最初は冷笑もので、議論が盛り上がって、ようやくあの形式に落着いたのでした。

大声クイズ


また、他人のアイディアを否定ばかりしているPやDにも、アイディアを出すように申し込み、ある時期から全員がアイディアを提出するようになり、番組は面白く展開するようになりました。

の会議ではクイズ問題も検討されていました。
クイズの制作者は会議には参加しませんが、その前に私の会社内で、クイズの選考をやり、そこを通過した問題が会議で検討されていたのです。
クイズ会議では、過去に出されたクイズや、他のクイズ番組で出された問題をチェックしていました。
この会議では福留さんが、その問題は「△△で、○○が答えた」という固有名詞を出して、否定する事がありました。
私は「本当かいな?」と、半信半疑で、過去のビデオをチェックするのですが、それが本当の事が多かったので、彼の記憶力の良さに驚かされた事がしばしばでした。

のようにウルトラクイズの準備は進行し、長寿番組となっていったのです。
最初の、構成作家の話に戻りますが、毎年クイズ問題を創るために、一般から問題制作者を募集しました。
学生が半分、その他は、クイズ好きの主婦やサラリーマンで、40人~50人を採用して、毎週10問くらいのノルマを科して問題を創っていただきました。
中には、ユニークな問題を創る人もいて、才能がある人には、クイズ形式のアイディアも出してもらい、放送作家の仲間入りした人も10指に余ります。
その意味では、ウルトラクイズは構成作家養成番組だったとも言えそうです。

自由の女神2

懐かしのセントルイス

メリカ横断ウルトラクイズで、アメリカ各地をアチコチと旅をしました。
場所によっては3度、4度と訪れた場所もありますが、場所の名前と風景がピッタリ一致して記憶に残るところは、それほど多くありません。
そのような中で、何年経っても直ぐに風景が思い出せる場所に、セントルイスがあります。
ここはミシシッピー川とミズリー川の合流点で、その昔は水上交通の要所として発展した商業都市だったのです。
また、ブルースの発祥地でジャズが盛んな街だったようですね。
あの名曲「セントルイス・ブルース」の故郷でもあるのです。

近、東京ではスカイツリーが誕生し、毎日内外の観光客で賑わっています。
スカイツリーは武蔵(ムサシ)、つまり634メートルの高さで、東京のアチコチから見える高い建造物という事で話題になりました。
これと同じように、セントルイスには街の何所にいても見える高いアーチがありました。
その名は「ゲータウェイアーチ」と言います。
セントルイスは有名な割りに観光地ではないので、見物するような場所はそれほど多くありません。
しかし、セントルイスを訪れた人は嫌でも目に付いてしまうほど、このゲータウェイアーチは、目立って大きいのです。

ゲートウェイ・アーチ


は、何故そんなに大きなアーチがこの地に出来たのでしょうか?
時は遡って、アメリカの西部開拓時代
東海岸をスタートした開拓者達が、幌馬車に乗って、西へ西へと向かいました。
そして、大きなミシシッピー川を渡り、西部への入り口となったのが、このセントルイスだったのだそうです。
つまり、西部への玄関口のモニュメントとして、あの巨大なアーチが建設されたのだそうです。

は良く湘南方面にドライブをするのですが、藤沢バイパスから新湘南バイパスに乗って、茅ヶ崎海岸インターで降りる手前で、大きな白いアーチを見ます。
大きさで言えば比べ物になりませんが、このアーチを巨大にしたような形のアーチでした。
この茅ヶ崎海岸のアーチを見る度に、遠い昔に訪れたセントルイスを懐かしく思い出してしまうのです。
我々ウルトラクイズでは、第7回の11チェックポイントでセントルイスを訪れました。

こでは珍発明クイズと題し、アメリカ人の発明家をゲストに迎え、彼らがどのような物を発明したのか、ヒントで当てて戴くクイズでした。
何故この形式になったかといえば、この地にはクイズの題材になるようなネタが少なく、普段の番組のように冒頭で出題する「ご当地クイズ」が創り難かったという理由がありました。
そこで、当時アメリカの雑誌で話題になっていた、馬鹿馬鹿しい発明品を番組で紹介したいと方向を変え、珍発明クイズが誕生したのでした。
その時の発明品は「楽々ジョギング・マシーン」「自動靴下着脱器」「立ち上がるのが楽な椅子」と言ったようなもので、いずれも人類の生活を快適にするような代物とは言えない、珍発明品ばかりでした。
それでも、ご当人達は大真面目で、我こそは現代のエジソン、とでも言いたげな誇り高き紳士淑女だったのです。

忍耐強いADさん達

メリカ横断ウルトラクイズの思い出を書いていますが、今日はスタッフの中でも最も苦労が多かったAD君達のお話を書いて見たいと思います。
テレビの業界ではAD(アシスタント・ディレクター)は、3Kと呼ばれていた時代が長い事続いていました。
厳しい、汚い、キツイ、これらの頭文字をとって、Kを3つ並べたもので、その位大変な職種であるという意味です。

ADブギ


にそれだけの修行を終えて、ディレクターになれば、これは撮影現場の監督ですから、中には我がまま放題で王様のように振舞う人も出て来たりします。
ディレクターが我がままで、アシスタント奴隷のように扱うという話は業界では珍しい事ではありません。
ウルトラクイズのように大きな番組の場合、ディレクターは毎回4~5人いました。
そのアシスタントも同じ位の人数だったと思います。

ルトラクイズは大きなチームで活動していましたから、全ての事が会議で検討され、実行されていました。
そのために1人の我がままな上司に振り回されるような事はありませんが、各セクションとも、上の者は全体に厳しく部下をしつけるような雰囲気がありました。
ADに関しても例外ではありません。
毎年、4月頃にチームが結成され、年内一杯はスタッフとして行動を共にします。
私の記憶では、途中で逃げ出したADは無かったと思いますが、途中で何人かが反乱を起こしそう、という噂が出た事はありました。

えばラスベガスへ行った時の事でした。
ここは、一夜にして億万長者を生むギャンブルの都ですから、若しかしたらそのおこぼれに預れるかもしれない、という夢を与えてくれます。

LasVegas


我々スタッフも、本番が終った後には、自由時間がありますので、ショーを見たり、ギャンブルに興じる事になります。
私も夜中まで遊んで、ホテルの部屋に引き上げてきた時です。
時間は午前2時頃でした。
エレベーターを降りると、我がスタッフのAD君が、廊下に椅子を出して、こっくり居眠りをしていたのです。

驚いて、「どうかしたのか?」と声を掛けたのです。
すると、挑戦者が遊びに出かけないよう、朝まで見張りをするように命じられたのだと言います。
では、他のスタッフのように、遊びに出ていないのか?
と聞いたところ
「お前らは仕事でアメリカに来ているのだ。24時間働け!」
と言うような激を飛ばされ、1人で朝まで見張りをしているのだ、という話しでした。
その時は、部下に対する教育と言うよりは、イジメに近いという印象でした。

でも、このAD君は、同じ制作会社の上司からの命令なので、他社の我々が口を挟む立場ではありません。
それにしても昼間はラスベガスの砂漠地帯で一日中ロケを行い、夜は寝る間もなく、見張りで徹夜とは、正に3Kを地で行った働き振りでした。

この年に「ADの反乱」といった不穏の噂が出たのですが、事前に察知した上司がこれを食い止め、大事には至らなかったという経緯がありました。

ADとしてウルトラクイズに参加して、ディレクターに昇格した人は何人も居ますが、彼らとてADの時には本当に良く働き、番組創りに貢献していました。
むしろ、そのような下積の働きがあったからこそ、あのようなヒット番組が出来たのでしょうね。
多分、当時ADだった人達も、人生で一番の苦労は? と問われればウルトラクイズのロケだった、という答えが返ってくるような気がします。
でも、過ぎてみると苦しみこそ、楽しい思い出という話もあり、やっぱり参加して良かったという意見になって欲しいです。

滝行

アメリカ横断!ウルトラクイズの裏話