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放送作家の養成番組?

メリカ横断ウルトラクイズのテロップを見ると、最初に構成という文字が現れ、私達、番組構成者の名前が出てきました。
視聴者から見れば、テレビで構成という文字を良く見るけれど、一体どのような仕事をしているのか、理解できない方もいるのではないでしょうか?
これは、私の仕事でもあるので、本日はこの内容について簡単に書いてみたいと思います。

レビ番組の構成者は、職業欄では放送作家と呼ばれて歴史はテレビの創成期から存在しました。
本来は映画と同じようにテレビ番組の脚本を書いていましたが、番組の中にはドラマ以外にも、情報番組、音楽番組、バラエティー番組、ドキュメント番組など、分野も多岐にわたっていますので、それぞれに企画や内容に関わりながら、台本を制作する役割を担当します。

在の番組では構成者も1人ではなく、複数名が名前を連ねてますが、私達のウルトラクイズが開始された70年代には、1人ないし、2人くらいが一般的でした。
でも、番組が大型化するに連れて、多数の頭脳が必要になって、次第に増えていったのがテレビ番組の歴史と言えるでしょう。

達がテレビ番組に関わった頃には、構成者は1人でしたから、企画会議を経て、台本は1人で書くものと決まっていました。
でも、1人の能力には限界がありますので、ウルトラクイズのような番組では、毎回5~7人くらいの放送作家が参加していました。

初は、私が所属していた制作会社の企画でしたから、我々の作家グループが全員参加で、10人くらいは居たように記憶しています。
しかし、回を重ねる内に、マンネリを防ぐ目的で、新しい血を入れるように日本テレビから要求され、何人かの放送作家が参加してきました。
ところが、新しい人達は拘束時間と、要求の割りに報酬が安いと不満が出て、次々と脱落してしまったのでした。
その結果、5年を過ぎた頃には、全員が創設メンバーに戻って、以後17回まで、同じ釜の飯を食った仲間の作家が参加してくれました。

ルトラクイズのアイディア会議は、週に1、2回、3~4時間行われました。
この会議にはPが2人、Dが4、5人。ADが2人、構成者が5~7人、それに司会の福留さんも時間の許す限り参加していました。
一番組の会議としては、かなりの人数です。
そこで、前の会議で宿題になっていたチェックポイントのクイズ案が検討されます。

成者は、自分のアイディアをコピーしたものの説明をしなければなりません。
つまらないと、誰かが遠慮なく「没」と否定の声を上げます。
若い作家などは、業界の先輩達が挙げるこの声にビビってしまいます。
ウルトラクイズの会議では、このくらいはへっちゃらにならないと、1人前とは言えません。

中には何故「没」なのか、納得できずに反論して、険悪な空気に包まれる会議もありました。
でも、思い返すと、そうした熱い議論のあった時には、良いクイズ形式が誕生していたように思います。
例えば「大声クイズ」などは、最初は冷笑もので、議論が盛り上がって、ようやくあの形式に落着いたのでした。

大声クイズ


また、他人のアイディアを否定ばかりしているPやDにも、アイディアを出すように申し込み、ある時期から全員がアイディアを提出するようになり、番組は面白く展開するようになりました。

の会議ではクイズ問題も検討されていました。
クイズの制作者は会議には参加しませんが、その前に私の会社内で、クイズの選考をやり、そこを通過した問題が会議で検討されていたのです。
クイズ会議では、過去に出されたクイズや、他のクイズ番組で出された問題をチェックしていました。
この会議では福留さんが、その問題は「△△で、○○が答えた」という固有名詞を出して、否定する事がありました。
私は「本当かいな?」と、半信半疑で、過去のビデオをチェックするのですが、それが本当の事が多かったので、彼の記憶力の良さに驚かされた事がしばしばでした。

のようにウルトラクイズの準備は進行し、長寿番組となっていったのです。
最初の、構成作家の話に戻りますが、毎年クイズ問題を創るために、一般から問題制作者を募集しました。
学生が半分、その他は、クイズ好きの主婦やサラリーマンで、40人~50人を採用して、毎週10問くらいのノルマを科して問題を創っていただきました。
中には、ユニークな問題を創る人もいて、才能がある人には、クイズ形式のアイディアも出してもらい、放送作家の仲間入りした人も10指に余ります。
その意味では、ウルトラクイズは構成作家養成番組だったとも言えそうです。

自由の女神2

懐かしのセントルイス

メリカ横断ウルトラクイズで、アメリカ各地をアチコチと旅をしました。
場所によっては3度、4度と訪れた場所もありますが、場所の名前と風景がピッタリ一致して記憶に残るところは、それほど多くありません。
そのような中で、何年経っても直ぐに風景が思い出せる場所に、セントルイスがあります。
ここはミシシッピー川とミズリー川の合流点で、その昔は水上交通の要所として発展した商業都市だったのです。
また、ブルースの発祥地でジャズが盛んな街だったようですね。
あの名曲「セントルイス・ブルース」の故郷でもあるのです。

近、東京ではスカイツリーが誕生し、毎日内外の観光客で賑わっています。
スカイツリーは武蔵(ムサシ)、つまり634メートルの高さで、東京のアチコチから見える高い建造物という事で話題になりました。
これと同じように、セントルイスには街の何所にいても見える高いアーチがありました。
その名は「ゲータウェイアーチ」と言います。
セントルイスは有名な割りに観光地ではないので、見物するような場所はそれほど多くありません。
しかし、セントルイスを訪れた人は嫌でも目に付いてしまうほど、このゲータウェイアーチは、目立って大きいのです。

ゲートウェイ・アーチ


は、何故そんなに大きなアーチがこの地に出来たのでしょうか?
時は遡って、アメリカの西部開拓時代
東海岸をスタートした開拓者達が、幌馬車に乗って、西へ西へと向かいました。
そして、大きなミシシッピー川を渡り、西部への入り口となったのが、このセントルイスだったのだそうです。
つまり、西部への玄関口のモニュメントとして、あの巨大なアーチが建設されたのだそうです。

は良く湘南方面にドライブをするのですが、藤沢バイパスから新湘南バイパスに乗って、茅ヶ崎海岸インターで降りる手前で、大きな白いアーチを見ます。
大きさで言えば比べ物になりませんが、このアーチを巨大にしたような形のアーチでした。
この茅ヶ崎海岸のアーチを見る度に、遠い昔に訪れたセントルイスを懐かしく思い出してしまうのです。
我々ウルトラクイズでは、第7回の11チェックポイントでセントルイスを訪れました。

こでは珍発明クイズと題し、アメリカ人の発明家をゲストに迎え、彼らがどのような物を発明したのか、ヒントで当てて戴くクイズでした。
何故この形式になったかといえば、この地にはクイズの題材になるようなネタが少なく、普段の番組のように冒頭で出題する「ご当地クイズ」が創り難かったという理由がありました。
そこで、当時アメリカの雑誌で話題になっていた、馬鹿馬鹿しい発明品を番組で紹介したいと方向を変え、珍発明クイズが誕生したのでした。
その時の発明品は「楽々ジョギング・マシーン」「自動靴下着脱器」「立ち上がるのが楽な椅子」と言ったようなもので、いずれも人類の生活を快適にするような代物とは言えない、珍発明品ばかりでした。
それでも、ご当人達は大真面目で、我こそは現代のエジソン、とでも言いたげな誇り高き紳士淑女だったのです。

忍耐強いADさん達

メリカ横断ウルトラクイズの思い出を書いていますが、今日はスタッフの中でも最も苦労が多かったAD君達のお話を書いて見たいと思います。
テレビの業界ではAD(アシスタント・ディレクター)は、3Kと呼ばれていた時代が長い事続いていました。
厳しい、汚い、キツイ、これらの頭文字をとって、Kを3つ並べたもので、その位大変な職種であるという意味です。

ADブギ


にそれだけの修行を終えて、ディレクターになれば、これは撮影現場の監督ですから、中には我がまま放題で王様のように振舞う人も出て来たりします。
ディレクターが我がままで、アシスタント奴隷のように扱うという話は業界では珍しい事ではありません。
ウルトラクイズのように大きな番組の場合、ディレクターは毎回4~5人いました。
そのアシスタントも同じ位の人数だったと思います。

ルトラクイズは大きなチームで活動していましたから、全ての事が会議で検討され、実行されていました。
そのために1人の我がままな上司に振り回されるような事はありませんが、各セクションとも、上の者は全体に厳しく部下をしつけるような雰囲気がありました。
ADに関しても例外ではありません。
毎年、4月頃にチームが結成され、年内一杯はスタッフとして行動を共にします。
私の記憶では、途中で逃げ出したADは無かったと思いますが、途中で何人かが反乱を起こしそう、という噂が出た事はありました。

えばラスベガスへ行った時の事でした。
ここは、一夜にして億万長者を生むギャンブルの都ですから、若しかしたらそのおこぼれに預れるかもしれない、という夢を与えてくれます。

LasVegas


我々スタッフも、本番が終った後には、自由時間がありますので、ショーを見たり、ギャンブルに興じる事になります。
私も夜中まで遊んで、ホテルの部屋に引き上げてきた時です。
時間は午前2時頃でした。
エレベーターを降りると、我がスタッフのAD君が、廊下に椅子を出して、こっくり居眠りをしていたのです。

驚いて、「どうかしたのか?」と声を掛けたのです。
すると、挑戦者が遊びに出かけないよう、朝まで見張りをするように命じられたのだと言います。
では、他のスタッフのように、遊びに出ていないのか?
と聞いたところ
「お前らは仕事でアメリカに来ているのだ。24時間働け!」
と言うような激を飛ばされ、1人で朝まで見張りをしているのだ、という話しでした。
その時は、部下に対する教育と言うよりは、イジメに近いという印象でした。

でも、このAD君は、同じ制作会社の上司からの命令なので、他社の我々が口を挟む立場ではありません。
それにしても昼間はラスベガスの砂漠地帯で一日中ロケを行い、夜は寝る間もなく、見張りで徹夜とは、正に3Kを地で行った働き振りでした。

この年に「ADの反乱」といった不穏の噂が出たのですが、事前に察知した上司がこれを食い止め、大事には至らなかったという経緯がありました。

ADとしてウルトラクイズに参加して、ディレクターに昇格した人は何人も居ますが、彼らとてADの時には本当に良く働き、番組創りに貢献していました。
むしろ、そのような下積の働きがあったからこそ、あのようなヒット番組が出来たのでしょうね。
多分、当時ADだった人達も、人生で一番の苦労は? と問われればウルトラクイズのロケだった、という答えが返ってくるような気がします。
でも、過ぎてみると苦しみこそ、楽しい思い出という話もあり、やっぱり参加して良かったという意見になって欲しいです。

滝行

泥んこクイズの裏話

メリカ横断ウルトラクイズのクイズ形式の中には、名物となっている物が幾つかありました。
その中でも、毎回爆笑を呼んだのは、グアムの浜辺で繰り返し行われた○×泥んこクイズでしょうね。

泥んこクイズ4

の形式が初めて番組で紹介されたのは、1980年の第4回大会でした。
この形式が、どのような経過で誕生したのか、その辺の事情を書いて欲しい、とのリクエストのコメントがありましたので、昔のアイディア会議を思い起こして見ました。
確か、誰かが子供の頃、泥んこ遊びをしてよく親に叱られた、という話をしたのが、きっかけだったと思います。
確かに親としてみれば、幾ら注意をしても泥んこまみれで子供が衣服を汚してくるのには、腹が立って叱るのは当然です。
このような日常生活の中から、ヒントを得て、クイズ形式は生まれていたのです。

これをきっかけに泥んこだらけのプールに飛び込ませて、全身が泥まみれになれば 「観ている人間は笑えるよね」という話で会議は盛り上がったと思います。
そこで、どうせなら美しい海辺で、全く逆な泥んこまみれの人間を作りあげよう。
そのためのアイディアを出せ、といった宿題が出されました。

こで、泥んこのプール内で、「カルタ取り」とか、正解を書いた札を奪い合う「泥んこプロレス」など、好き勝手なアイディアが沢山出されました。
その中で、○×のボードに飛び込む、というあのアイディアが、採用されたのでした。
普通、このクラスの形式が出されたら、事前にテストをして、問題が無ければ採用、というのが番組作りの流れでした。
でも、当時国内でそのようなシュミレーションをした記憶がありません。
ですから、これはぶっつけ本番で行われていたのですね。

っとも、グアムの浜辺でリハーサルを行い、これで十分に成立する、と確信をもって本番に臨んだのは当然です。
実は、簡単に見えるかも知れませんが、事前の準備としてウレタンで出来た○×のボードを沢山制作し、これを現地に送らなければなりません。
また、正解者が飛び込んだパネルの先には、泥んこプールを覆いかぶす大きなマットが必要です。
逆に、不正解者の泥んこプールには、そのようなマットがないので、泥の中に頭から飛び込むという仕掛けなのです。

○×のウレタンボードや、大型のマットなど、このような装置があって、挑戦者は○か×のパネルに飛び込んで行く訳です。
このような仕掛けは現地では調達できませんので、全て東京で制作し、空輸されて使われるのですから、この番組の費用が膨大にかかったと言うのはご理解戴けると思います。

戦者が、ボードを突き破って飛び込んで来る瞬間を、カメラで捕らえるために、カメラマンは不正解者の飛び込んでくるパネルを事前に知っていなければなりません。
ですから、泥んこのプールの上にカメラを構え、パネルを突き破って、頭から飛び込む瞬間をアップで捉え、それが爆笑を呼んでいたのでした。

泥んこクイズ1

この形式の特徴は、誤答の罰ゲームが即、泥んこのプールに突っ込む、という一目瞭然の形式であり、人気を呼びました。

泥んこクイズ3

いでに、最初のアイディア会議で出された「泥んこカルタ取りクイズ」と言う案も捨てがたく、第7回のグアムの敗者復活戦で採用されました。
このように、ウルトラクイズのアイディア会議で検討された面白い形式は、その年に実行されなくても、別の年に復活するような事が良くありました。
これも、永年同じメンバーのスタッフが参加した番組ならでの事でしょうね。

人形のように、泥まみれになった敗者は、そのまま海に入りたいところですが、それは海が汚れるので許されませんでした。
ですから、シャワーで洗い流していましたが、ここで使われた土は、粘りが強く、中々洗い流せないという特徴があり、皆さん苦労をしていたようですよ。
泥んこの敗者は、古墳から出土する埴輪状態で、良い記念写真が撮れたのではないでしょうか。

不思議、ロスの水源は砂漠の真ん中にあった

メリカ横断ウルトラクイズで、我々はアメリカの中をアチコチと歩き回り、ロケをする場所を探しまわりました。
お蔭で、アメリカの成り立ちや、現状、問題点などを随分勉強させられました。
その中で、視聴者が興味を持ちそうな場所を訪れ、クイズ会場となる場所を決めていたのです。
中には、一般常識で考えても不思議な場所があったりします。
その代表的なのは第9回の時に訪れたラスベガスのミード湖です。

ミード湖


ラスベガスと言えば、砂漠の中に忽然と現れるギャンブルの街です。
そこから、南東の方角に約40キロほど走った場所にミード湖はありました。
砂漠と言えば雨が全く降らない乾燥地帯というのが、一般的な常識でしょう。
そんな場所に何で湖があるのか、これが第1の不思議
次に湖の水は何所からやってくるのか、これが第2の不思議

こで、この謎を解きながらミード湖の成り立ちを説明しましょう。
ミード湖は世界最大の人造湖なのです。
長さが185km、周囲が885kmと言いますから、とてつもなく大きいことがお解かりかと思います。
しかも、湖畔一帯がキャンプ場や水上スポーツ、釣りなどが楽しめるレジャー施設になっているのですから、アメリカ人のやる事は桁外れにどデカイのが解ろうと言うもの。

は、ここの水は何所からやってくるのか? 
そのような疑問が沸いてきます。
実は遥か離れたロッキー山脈の山奥を水源とするコロラド川が砂漠地帯を流れていたのですね。
そこで、これを堰き止めて、砂漠の中に大きなダムを作ろうという計画が出来上がったのです。
そうなると、この工事に携わる人材が必要になります。
アメリカ中から労働者が、この砂漠地帯に集まってきて、建設ラッシュになったわけです。
そこで完成したのが有名なフーバーダムなのです。
この時、砂漠の中の作業員を慰安しようという目的で、ラスベガスが出来たという話も聞きました。
こうして完成したフーバーダムで発電された電力は、カリフォルニア州、アリゾナ州をはじめ、電飾で飾られたラスベガスの電気も全てここの電気が使われているそうです。
時に完成したのは1936年と言いますから、ラスベガスの歴史もそんなに長いわけではなかったのですね。

ラスベガス


て、ミード湖の水ですが、遠く500kmも離れたロスをはじめ、南カリフォルニア一帯の水源として使われているのだそうです。
つまり、このダムが完成したお蔭で、ロスサンディエゴも、現在のような発展が出来たのかもしれません。

このような現代アメリカの事情を調べながら、ウルトラクイズは番組を作っていました。
でも、当時はそのような本質は陰に隠れて 「ジャンケンに勝てばアメリカに行ける」みたいな馬鹿馬鹿しい部分だけが目立って、軽薄な印象もありましたが、本質は結構真面目な番組だったのですよ。

現在では、池上彰さんの易しく学べるお勉強番組がヒットしていますが、手法は違っても、本質は似ているように思いませんか?

こういうのを勝手な押し付けというのでしょうね。