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自然を前に手も足も出ない①

メリカ横断ウルトラクイズは決められた日程の中で、確実にスケジュールをこなして行かなければ成立しません。
どんなアクシデントがあろうと、日程を変更出来るような甘いスケジュールではないのです。
例え雨が降ろうが、槍が降ろうが、最初に決められた場所で決められたクイズを行うというのが基本姿勢でした。
はいえ、予想も出来ないような出来事が起こって、ルートやクイズ方式を変更せざるを得ないことも、永い歴史の中では起こっています。
例えば台風やテロによる影響、航空会社のストライキなどに巻き込まれて、予定通りに移動が出来なかったことなどは結構ありました。
んな場合でも、次なる手を直ぐに考えて実行しなければ日程が崩れてしまうのですから、スタッフは常に緊張状態に置かれているようなものです。
何故、そんな厳しいスケジュールかと言えば、出場者、スタッフ合わせて100人近い人数が移動するわけですから、ホテルにしても航空機にしても、一度キャンセルをしてしまうと、次にそう簡単に予約が取れるという保障はないのです。
れにクイズ会場にしても、何ヶ月も前から場所を押さえて、交渉しているのですから、簡単に変更は利かないという事情もがあるのです。
そんな中で、恒例のコースとなっているグアムで、台風のため2度にわたって被害に遭ったことがありました。
↓普段は美しいグアムのビーチ

グアム

14回16回の時でした。
まずは14回の時のお話。
イズ前日の夜中に台風の直撃を受けてしまったのです。
グアム名物になっている泥んこクイズ
前の日に泥んこプールを掘って、中にコッテリと練り上げた泥んこをかき混ぜ、あのようなプールを設営するのです。
この年も前の日からプール創りをしましたが、夜中になって台風がグアムの真上を通過したのですから、只ではすみません。

↓グアム名物泥んこクイズ

泥んこクイズ

泥んこクイズ2

、起きて1番にプールを確認に行ったスタッフが顔色を変えて帰ってきました。
プールが台風で流され、泥んこが海に流れ出てしまっていたのでした。
我々が駆けつけて見ると、真っ青なグアムの海に、真っ茶色なが流れ出ていて、とても修復不可能な状態でした。
んこプールに飛び込む恒例の「○×泥んこクイズ」は中止となり、急遽○×のボードを揚げるクイズに変更されたのです。
更に衝撃を受けた16回の時のことはまた次回。

スタッフが体験して実行に移す

メリカ横断ウルトラクイズは挑戦者にとんでもない体験をしてもらうというのが1つの売り物になっています。
特に視聴者に人気があったのは、罰ゲームの過酷さ。
これもアメリカまでタダで旅を楽しんでいるのだから、そのくらいの罰ゲームは覚悟しろよ、という視聴者の心情もあっったのだと思います。
いっても、誰もが体験できないような危険な事を無責任に押し付けるような事はできませんでした。
えば、バンジー・ジャンプです。
今でこそバンジー・ジャンプはわかりやすい罰ゲームとして良く番組にも登場しますが、その当時は、バンジー・ジャンプが今ほどメジャーではなく、見るからに恐ろしいアトラクションでした。

バンジージャンプ

13回ニュージランドへ行ったときに、罰ゲームで今にもバンジー・ジャンプをさせるような場面がありました。
の上から、40メートル下の谷底目がけて逆さまに飛び降りる「恐怖のバンジー・ジャンプ」を体験させるという罰ゲームでした。
橋の上でロープで足をしばり、今にも逆さまに飛び込む寸前まで敗者を追い込んで、敗者が失神寸前というところで、ストップさせたドッキリだったのです。
敗者にしてみれば、現場で嫌と言うほど恐怖感を体験し、もう覚悟を決めたところで、中止となったのですから、実際は恐怖体験をしたのと同じくらいの罰ゲームだったはずです。
はあの場合も、スタッフがバンジージャンプを誰も体験していなかったので、それを敗者に押し付けるのはダメだ、という基本姿勢から実行までは出来なかったのでした。
つまり、スタッフが出来ない事を挑戦者にやらせるわけには行かなかったのです。
の意味では、第14回のエリーでの体験を思い出します。
エリーはミネソタ州の北の端、カナダとの国境付近の街です。
ここに国民栄誉賞を受けた冒険家の故・植村直己さんが、かつて訓練のために入学した自然体験学校があったのです。

こでは、挑戦者達を1日入学させ、胸まで沈む泥沼を横断歩行させたり、カヌーの特訓、ロッククライミングに挑戦させるなど、クタクタになるまで自然の生活を体験させようという事になりました。
となれば、それがどのくらいキツイ体験なのかをロケハンで我々が体験しなければなりません。
々は林の中に張り巡らされたロープの綱渡りをしたり、岩山をロッククライミングしたり、普段使わないような筋肉を嫌というほど使い、クタクタに疲れてしまいました。

↓ロケハンの様子です

ロッククライミング1

ロッククライミング2

の日の晩は食事の後、ぶっ倒れるように眠ってしまったのですが、これは我々スタッフが体験したので、もちろん挑戦者たちにも体験してもらいましたとさ。

プロデューサー第3の試練~真冬の滝行でブルブル震える

メリカ横断ウルトラクイズスピンオフ企画史上最大の敗者復活戦の準決勝は、高尾山で行われました。
↓高尾山

高尾山

尾山は、東京近郊では有名な観光地です。
その昔は修験道の霊場として発展し、今では真言宗智山派の大本山で高尾山薬王院として、信仰の対象になっている霊験新たかな場所です。
こを会場に選んだからには、修験道の霊場として今も現存する滝行を無視するわけにはいきません。
挑戦者はクイズに挑戦する前に、真冬の滝の水に打たれて身を清めるべきだ、という何とも無責任構成案が作家やディレクターから出され、それを実行させる事になってしまったのです。
しかも、ウルトラクイズの敗者担当といえば、徳光和夫さんです。
↓滝行

滝行

組としては、徳光さんにも一緒に滝行を体験してもらおうということで意見がまとってしまったのです。
しかし、当時の徳光さんは日本テレビの『顔』とも言える存在でした。
真冬の滝行などさせて、もし大事な身体が体調不良にでもなったら、誰がどのように責任を取らなければならないのか。
プロデューサーとしては、難しい判断を迫られる事になりました。
の頃、私は個人的に「ズームイン朝!」の構成作家でもありましたから、徳光さんとは毎朝顔を合わせる間柄でしたが、そうとは言え真冬の滝に打たれて欲しいなどと言う無理な注文はしにくいものです。
こで考えました。
我々番組のプロデューサーもディレクターも構成作家もスタッフが全員番組の成功を祈願して、滝に打たれよう。
「だから徳光さんも是非一緒に滝に打たれてください」
と口説いたのです。
の日は丁度で、今にも雪がパラつきそうな寒い空模様でした。
徳光さんはそんな事もあろうと、最初から予想していたようで
「無理する事はないよ。みんながやらなくても自分はやるさ」
と気持ちよく引き受けてくれたのでした。
れで我々スタッフが引っ込んだのでは申し訳ないとばかり、私も生まれて初めて真冬の滝行に挑戦したのでした。
勿論その時のスタッフは全員裸になって、川の中に飛び込んでいきました。
それを見て、徳光さんも一緒に飛び込んでくれたのでした。
でも、真冬の滝行って想像以上にきつい修行ですよ。

プロデューサー第2の試練~警察への謝罪

上最大敗者復活戦の第一次予選は後楽園球場での○×問題で始まりました。
会場には5万人を超える敗者がスタンド一杯に集まりました。
内野外野のスタンドは立錐の余地がないほどの人数でした。
↓後楽園球場(敗者復活戦の写真ではありません)

後楽園球場

れだけの人数が、1つの問題に答えて、○か×かで選別されるわけですから大変な熱気が辺りを包む事になります。

プロデューサー初体験の私としては、何とか事故も無く無事にイベントが進行して欲しい、と神に祈るばかりです。
×の予選は何とか無事に終わってホッとしたのも束の間、翌日には後楽園球場の地元である、富坂警察所から呼び出しの電話がありました。
↓富坂警察所

富坂警察所

事かと思って駆けつけると、昨日のイベントで、後楽園の階段の途中から、下に向かって、石を投げた不届き者がいた、との事です。

幸い石は人に当たらずに、怪我人は出なかったものの、
「番組としての警備体制に不備は無かったのか?」
というキツイお言葉です。
「我々は警備員を50人ほど配備したのですが、不足でしたでしょうか?」
恐る恐る訊ねると、
「あのイベントで50人は少ないのではないの? 予算をケチっちゃ駄目だよ」
という厳しいご返事。
あ、ともかくプロデューサーなんて肩書きだけで、喜んでいる場合ではありません。
とんでもない事を引き受けてしまった、という後悔が頭の中でぐるぐると回り出し、これをきっかけに私は構成作家から、番組制作の会社を始める事になってしまったのです。
の意味では、史上最大敗者復活戦は、私に新しい道を示してくれた記念するべき企画だったとも言えます。

プロデューサー第1の試練~史上最大の敗者復活戦

メリカ横断ウルトラクイズは毎年日本テレビ木曜スペシャルという番組の枠で放送されました。
しかし、その枠を外れて放送されたことが一度だけあります。
それは、1982年の12月31日の大晦日、世の中はNHKの紅白歌合戦で盛り上がっている真っ只中に、ウルトラクイズをぶつけようという乱暴な企てだったのです。
それも企画は急遽決まったように記憶しています。
その年のウルトラクイズが放送されている時に、突然呼び出されて「大晦日の紅白歌合戦」の裏番組として、ウルトラクイズの別バージョンを放送する事に決まりました。
それが『史上最大の敗者復活戦』です。
風に言うなら「スピンオフ」企画でしょうか。
「構成、クイズ問題」の制作は今から間に合うように準備して欲しいという話でした。
れまでの1年間、ずっとウルトラクイズの準備に架けていた私としては、晴天の霹靂とも言うべき驚いた話でした。
しかし、当時の私は仕事の話を断れるほどの立場ではありませんので、
「はい。何とか出来ると思います」
と答えてしまったのが人生を大きく変えてしまう始まりだったのです。
故なら、クイズ番組の発注と共にとんでもない言葉が続いて発せられたのです。
「ついては、日テレ局内には今手の空いているプロデューサーがいないので、プロデューサーも兼務してくれ」
との事です。
時の私は、テレビ番組に携って、20数年のキャリアはあるものの、プロデューサーなどという経験は全くありません。
そんな素人同然の私が、今まで手にした事も無いような大きな予算を抱えて、どのように配分するのか、皆目検討も付かない状態です。
れまでの感覚では、プロデューサーは番組の頂点にいて、好き勝手な意見を言いながら、威張っている存在と思っていました。
まあ、ぶっちゃけた話、気楽な小山の大将といった印象だったのです。
しかし、いざ引き受けるとなると、とんでもない責任を負わなければなりません。
何しろ番組の総責任を負わなければならない立場なのですから。
『史上最大の敗者復活戦』は、12月31日の夜、3時間半の生放送でオンエアされる事が決まっています。
加資格は、それまでの7年間に後楽園球場に来た事のある敗者は、誰でも参加出来るという事だけが決まっていたのです。
それからテレビを通じて出場者の募集が始まりました。
幸先は良く、応募者は10万人を軽く越えました。
その中から書類審査をして、5万人近い(※)人達が参加資格を得ました。
(※)
ウィキぺディアの資料によると、予選のため後楽園に集まった敗者は24,642人と出ていますが、私の記憶では5万人を超えて、入場出来ない人が居たりして大変な思いをしたというのが真相です。
少なくとも5万人以下ということはありませんでした。
れから、番組プロデューサーとしての試練が始まったのです。
1の試練は、会場探しから始まりました。
後楽園球場の○×クイズに勝ち残った人達が、東京近郊を移動しながら、クイズの予選をしなければなりません。
の、クイズ会場として東京近郊の有名な神社仏閣が良いのではないかという案が出ました。
そこで、初詣で有名なお寺として、成田山新勝寺が候補に上がりました。
↓成田山新勝寺

成田山新勝寺

こならば関東地方では有数の参詣人が集まる著名寺院であり、クイズ地としては最適といえるでしょう。
そこで、成田山を訪問して番組のロケ地としての許可をもらおうと申し込んだのです。
ころが担当者として、現れた広報の係りの方は、断固としてテレビの撮影には協力出来ないという拒否反応が出てしまったのです。
理由は、少し前に他のテレビ局のバラエティー番組の撮影場所として、境内を提供したのだそうです。
ところが何と、境内の入り口にあった狛犬さんを真っ赤なペンキで塗ってしまったのだそうです。
そして、そのまま帰ってしまったというのですから、関係者はカンカンに怒っていたのでした。
↓新勝寺の狛犬

成田山狛犬

この局かは知りませんが、同業者のとんだ不始末で、私のプロデューサーとし