ロケ弁のお話です

メリカ横断ウルトラ・クイズは、毎年平均して1ヶ月のスケジュールでロケを行っていました。
テレビ番組の収録は、国内の場合ロケにはロケ弁というのが付き物です。
ロケ弁専門の業者もあって、その中身はスタッフの楽しみの1つになっています。
ロケ弁は、スタッフもタレントも差別無く同じ物を用意するのが、業界の慣例になっています。
もっとも2種類か3種類用意し、その中からチョイスするのが一般的といえるでしょうね。

中には、そのような弁当は自分の口に合わないと言って、特別食を注文するような我侭なスターの噂を聞く事もありますが、そのような人はスタッフの評判も最悪にならざるを得ません。
昔から、食べ物の恨みは恐ろしい、と言いますが、人間の心理はそのようなところに表れるのでしょうね。

を我がウルトラ・クイズのロケ弁に戻します。
国内の東京ドーム予選は、早朝から準備に入りますので、朝、昼と2食弁当が出ていたように記憶しています。
ただ、中身がどのような物であったかは、流石に覚えていませんが、朝と昼では異なるメニューでした。
成田では朝だけロケ弁で、昼食はグアムに向かう機内で食べていました。
これは一般の乗客と同じ機内食でした。

さて、グアム、ハワイを経由してアメリカ本土に渡ってしまうと、日本のような折に入った弁当にはめったにお目にかかる事はありません。
しかし、ロス、サンフランシスコ、といった大都市には有名な和食店がありましたので、そこに注文して和食弁当を頼んだ事もありました。
この辺は有名店のお弁当ですから、国内で食べるロケ弁よりはかなり豪華な内容でした。

ルトラ・クイズのロケは、周囲にお店の無いような場所が多かったので、ロケでの昼食はケータリングが殆どでした。
最近は、日本でもこのケータリング・サービスをしているお店も有りますが、アメリカでは一般的で、ホテルやレストランが出張サービスで、台所ごと車でやって来て、料理を作ってくれるサービスです。
アメリカの場合は、バーべキューが多く、その中には、飲み物のサービスも入っています。

BBQ

中にはアルコール類も入っていましたが、流石に日本人は仕事中はお酒は飲まない習慣が身についていますので、飲むような事はありませんでした。
ただし、我がウルトラ・スタッフはビールだけはお酒と考えていなかったようで、ロケの現場にはいつも飲み物として、ジュースやコーラと共に、冷えたビールが用意されており、水の代わりに飲みながら仕事をしていた人もいました。

ケ弁の事を書いていたら、最近はキャラ弁という言葉があるそうですね。
人気のキャラクターをデザインしたお弁当で、お母さん達が工夫をして作り、子供も好きなキャラの場合は、良くお弁当を食べるので、話題になっているのだそうです。
YouTubeでその作り方を教えている人がいて、その方が「ウルトラ・ハット」を作ってくれました。

キャラ弁_ウルトラハット

ウルトラ・クイズが放送されている時代なら、このキャラ弁も人気商品になったのでしょうが、現代の子供たちに解りますかねえ。
ご覧になりたい方は覗いてみて下さい。

http://www.youtube.com/user/channelgoldenaxe

手探り状態で始まったウルトラクイズ

メリカ横断ウルトラクイズは、全部で17回放送されました。
とはいえ、最初のスタッフは、誰1人そんなに永く続く番組になるなどと思っていませんでした。
その良い例が、第一回のクイズ形式や、クイズ問題の使い方に現れていました。

前にも書いたかもしれませんが、最初は木曜スペシャルの1週分くらいの予定で制作に入ったのでした。
当時は、視聴者参加のクイズ番組が盛んな時代で、一番の人気は 「10問正解して、ハワイへ行こう」 のキャッチ・フレーズで知られた「アップダウン・クイズ」でした。
これに勝つクイズ番組を考えていた我々は、常識をひっくり返す様な、むちゃくちゃなアイディアを提出したのです。
つまり、10問正解してハワイへ行こう、なんていうのはケチ臭い。
どうせなら、挑戦者を全員ハワイどころか、ニューヨークまで連れて行ってしまえ、という乱暴な案でした。

自由の女神

んなみたいな番組が実現するはずが無い、と誰もが思っていたのです。
ところが、木曜スペシャルで採用が決まってしまったのです。
だから、クイズ問題にしても、そんなに多く準備したわけではありません。

早押しクイズ、○×クイズなど、私の記憶では2,000問~2,500問位を持って、ロケに出発したのだと思います。

ころが、実際にクイズを始めると、どう考えてもニューヨークに行く前に問題が足りなくなるという事が予想されたのです。
何故なら、放送上は編集でカットされていますが、クイズ問題が出題されても、誰も応えずに、問題だけが消費されて行く、というような状態が起きてしまうのです。
そのような事が起こらないために、難問の中に、易しい問題を配分よく並べるように進言するのですが、頑として易しい問題を拒否する指揮官が居たのです。
完璧主義者を自認する彼の言い分は、アメリカまで来ている人間が、この程度の問題に答えられなくてどうする、という正論を振りかざすのでした。
その結果、電波に乗ることも無く、現場で消費されるだけの難解な問題が、陽の目を見ずに多数消えていったのです。

のため、クイズ問題は数が減って行くばかりです。
そこで、留守番部隊にSOSが発信され、急遽追加問題が作られ、発送されました。
それも今のように、インターネットで送れる時代ではないので、郵便物として行く先々に送り届けていたのです。

イズ問題一つをとっても、このような手探り状態で番組は始まったのです。
収録が進むに連れて、1回の放送ではとても収まらないと言う事が、肌で感じるようになり、2週に分けて、否、3週に分けられると、と次第に膨らんで行きました。
予算的にも、3週分でも収まらないほど使われていました。
結果的には第一回は3週に分かれて放送され、しかも、これが高視聴率を獲得したため、1年1度の恒例番組になったのでした。

題を担当する私から言えば、毎年予想される数よりも2割から3割くらいクイズ問題を多めに準備しました。
それらの問題は1問毎に厳しく吟味されているので、大切に扱いたいという気持ちが強いのは当然です。
そのように思うと、初期の時代は問題を惜しげもなく消費していました。

えば、機内のペーパー・テストにしても何と800問でした。
そんなに数多く出題する必要があるのか、会議で私は疑問を呈するのですが、多ければ多いほど実力が判定できる、と当たり前の理屈で兎に角多数のクイズを解答させる、という持論を頑として譲りませんでした。
これを1時間で解答するのには、4秒半で1問を答えなければなりません。
挑戦者には厳しい試練といえましょう。
解答用紙を見ても、7割から8割答えていれば上々といった解答率でした。

期の頃は、見方によっては挑戦者イジメとも思えるような厳しい番組としてスタートしたのでした。
挑戦者だけではありません。
スタッフにしても、短い時間内で採点し、合否を集計するのですから、気が抜けない緊張の連続です。
このように手探り状態で始まった番組でしたが、回を重ねる度に効率よく進行するように改善され、長寿番組となったのでした。
初めの第1歩はこのように汗もの だったのです。

ロゴ

旅は道ずれ、夜は緊張!

メリカ横断ウルトラ・クイズに挑戦者として参加した方は、多分あの旅の間は、緊張の連続だった事だと思います。

難しい難問をクリアして、折角海外に来たのだから、少しはレジャー気分を味わいたいと言うのが人情でしょう。
ところが、鬼のようなウルトラ・スタッフには、そんな人情は持ち合わせていませんでした。 

組内には、常に緊張感が張り詰める。
そんな番組こそヒットすると硬く信じ込んでいたようなのです。

と、いうと他人事のように聞こえるかもしれませんが、あの時代にはそのような精神論があって、我々は正にそれを実践していたのでした。

えば、夜襲クイズなどはその典型的な形式でした。

クイズが終って「今夜はゆっくり眠るぞ」という挑戦者を突然襲って、クイズを出題する、このような事を1度体験すると翌日からはオチオチ眠っていられません。

現代なら、人権侵害番組だ!とマスコミの総攻撃を受けそうな事を、平然と実行していたのですから、時代の変化を感じてしまいます。 

このような緊張感を持続させるため、第5回のハワイのホノルル空港でも突然の奇襲クイズが実施されました。ホノルル空港

の時は、前日の浜辺で行われたクイズで、30人から14人が勝ち抜き、アメリカ本土に向かって、空港にやってきました。

ところが、空港でいきなり○×クイズが行われたのです。

問題は全員に出題され、ただ1人が誤答するまで続けられました。
しかも、意地の悪い事に、正解か不正解かは、その場で発表されませんでした。

つまり、ロスの空港で成績を発表すると言うわけです。
と、なるとロスまでの飛行時間は心臓ドキドキで、旅の楽しさなどは何処かへ飛んでいってしまいます。

この時の生贄になったのは、機内ペーパー・クイズで女性第一位だったNTさんでした。
ロス空港

女はロスの空港で飛行機を6時間も待たされ、東京まで10時間、ホノルルを出てから22時間もかけて帰り着くという罰ゲームを受けたのでした。

これでは、楽しい海外旅行など夢の夢ですね。

それでも、挑戦者は懲りずに集まって来た、良い時代でした。

日帰り海外旅行

メリカ横断ウルトラ・クイズは挑戦者に過酷な体験を要求していました。
一体、スタッフはどのような意地悪な人間なのか、という非難の声が聞こえてきそうな計画を、次々に考え実行していました。
尤も、その意地悪さが視聴者を喜ばせていたのですから、人間の本質は意地悪なのでしょうかね。
 
は私達も、自分達で仕掛けた罠に敗者が嵌まる度に、心の中では「申し訳ない」という気持ちが多分にあったのです。
中でも、毎年一番気の毒に同情心を呼んだのはグアム、又はサイパンの空港でした。
考えてみれば、あの難関の東京ドームを突破し、成田でのジャンケンをクリアし、いよいよアメリカに向かって旅に出た、挑戦者達の胸の中はルンルン気分の筈です。
ところが、機内で行う400問ペーパー・クイズが待構えています。
これは東京ドームの○×クイズや成田のジャンケンのように、カンや運に頼るものと違って、本当の知力を試されるクイズなのです。
ここで、落ちるという事は、全国的に恥をかく事になってしまいます。

ペーパークイズ

かも、海外までやってきて、そこの地を一歩も踏めずに、飛行機から降りる事も許されず、Uターンして帰国させられてしまうのですから、哀れを通り越して涙を誘うような気の毒な場面になってしまいます。
あのウルトラクイズで通算、何百人の方達がこの悲哀を体験なさった事か、そんな中でも、特に記憶に残る人達がいました。
 
それは第5回のサイパン空港でした。
この年は55名の挑戦者の内、45名が合格という配分でした。
つまり10人の方が涙を呑むことになったのです。
その中になんと1組のご夫婦が含まれていたのです。
ご夫婦揃ってジャンケンに勝った時には拍手喝采でした。
ころが、それからわずか数時間後、このお二人は地獄の経験をさせられてしまったのです。
Tさんご夫婦ですが、この時の屈辱感は永く記憶に残った事でしょう。
しかし、放送翌日には、Tさんご夫婦を慰める手紙が数多く届いた所を見ると、視聴者の皆さんも、本質は優しかったのですね。
このような悲喜こもごもの出来事を残しながら、ウルトラクイズは毎年制作されていました。
でも、考えてみれば日帰り海外旅行という通常滅多に有り得ない体験をご夫婦で出来たのですから、希少価値として良い思い出になっているかも知れませんね。

サイパン

他力本願は通じないウルトラクイズ

メリカ横断ウルトラ・クイズは知力、体力、時の運がキャッチコピーとして広く浸透していました。

しかし、今思い返してみると、そこにもう1つ加えたい言葉が浮かんできました。
それは「他力本願ぶっ飛ばせ!」という言葉です。
つまり、自分の思う通りに突き進めという事を強調すべきでした。

それは特に○×クイズに当てはまる注意点といえるでしょうね。

〇×クイズ

ウルトラ・クイズの○×問題は、我々クイズ制作者には最もきつい仕事でした。

一見誰でも判りそうでいて、しかし盲点になっている事象を探さなければ、採用問題になりません。

単に知識が豊富というだけでは、正解を導くことが出来ないという難しさが要求されていたのです。
だから、グアムで恒例となっていた○×泥んこクイズでは、クイズに強いと呼び声が高かった人達が、多数敗れ去っています。

泥んこクイズ4

また、東京ドームでも、他力本願で誰かについて走っていた人達が、残念な結果に終わっていました。

我々は早い時期から、このような他力本願を無くそうと考えていました。
司会の福留さんが、「自分の考えで走れ!」と何度も絶叫していたのを思い出します。

んな不和雷同はだめよ、と最初に感じさせた出来事は第4回の後楽園球場で起こっていました。

その前年度のクイズ王だった福島県からの参加者、S・Rさんが会場にいたのです。

彼を目ざとく見つけた挑戦者は、当然の事ながら、己の考えを捨て去り前年度のチャンピオンに自分の運命を託そうとしてしまいました。

そして、あろう事か、S・Rさんは第1問の自由の女神問題で、落ちてしまったのです。

後で聞いたところによると、彼の周囲にはファンと思しき集団が出来ていて、その人達が一団となって、第1問で消えてしまったそうです。

また、この年のグアムの○×泥んこクイズでは、第2回のクイズ王に輝いたKさんも泥んこの中に消え去っていました。

事ほど左様に○×クイズを正解するのは至難の業なのです。

それも単純明快な二者択一なのですから、負けても悔いが残らないよう、自分の勘を信じるべきなのでしょうね。

○×は他力本願飛んで行けー と言えば良かったです。