ホワイトハウスの問題が少なかった訳

メリカ横断ウルトラ・クイズの第1問は自由の女神と決まっていました。

自由の女神

これはニューヨークを象徴している建造物ですから、我々スタッフにも、挑戦者にも異存は有りません。
この自由の女神に固定する前に、アメリカの象徴という事で、ホワイトハウスを問題にしたらどうだろう、というアイディアもありました。

ホワイトハウス

例えば、○×クイズ
 「ホワイトハウスの最初の住人は、初代、ジョージ・ワシントン大統領だった」
というような問題も作られました。
しかし、ホワイトハウスを問題にしても、自由の女神ほど角度を変えた問題は出来そうにありません。
何故なら、ホワイトハウスに関する情報はすべて公開されているので、挑戦者に先読みされて、誤答する人間など出てきません。
従って、1問目発表の前の、あの緊迫感は望めなく、つまらない展開になってしまうでしょうね。

みにホワイトハウスにも、クイズになりそうな歴史があります。
例えば、ホワイトハウスは初代、ジョージ・ワシントンの時に建設が開始されていたのです。1,792年に着工され、コンペでデザインが募集され、アイルランド出身のジェームス・ホーハンという名の建築家の案が採用されたのだそうです。
着工から、8年の歳月をかけて、1,800年に完成しました。
しかし、この時には、初代のワシントンは大統領職を辞していて、完成の前年に亡くなっていたのです。
だから、最初の住人は2代目大統領のジョン・アダムスだったのです。
といって、彼が「ホワイトハウスの最初の主人」という訳では有りません。
何故ならその時には、大統領公邸をまだ、ホワイトハウスとは呼んでなかったのです。

成から14年目に、米英戦争によって、大統領の公邸は焼打ちに遇ってしまったのです。
そこで焼け落ちた建物の大修復工事が行われ、1,817年に今の形に完成したらしいのですね。この時に焼け焦げた外壁を白く塗装したところから、ホワイトハウスと呼ばれるようになったのだそうです。
だから、ホワイトハウスの最初の住人は4代大統領のジェームス・マディスンだったという事です。
でも、これは重箱の角を突っつくような問題で面白くありませんから「没」です。

我々は第3回の準決勝を、世界の政治の中心地ともいうべきホワイトハウスの前で行いました。
その時、この館の主人はカーター大統領でした。
午前7時15分、我々がホワイトハウス前の広場で、クイズ会場の準備をしていた時、轟音と共に1機のヘリコプターが頭上に現れ、ホワイトハウスに着陸したのです。
前日まで、休暇で過ごしたキャンプデービットから、大統領閣下が帰ってきたわけです。

カーター大統領

この時の第2問目に、ホワイトハウスの問題が出ていました。

・ホワイトハウスの名は、1,814年にイギリス軍に攻撃され、火災で黒くなったものを白ペンキで塗りなおしたことに由来します。では、塗り直す前の
色は何色?

答・灰色(現在は市の中西部に位置し、白亜のルネッサンス風の建築物で、国会議事堂と並んで、アメリカのシンボルとなっている)
 
灰色というのは、トップの館にしては響きが悪いですね。
グレーハウス、灰色高官、灰色大統領、いずれもイメージダウンになりかねません。
やはり、トップは純白に限ります。

トップ

家族も協力したウルトラ・クイズ

メリカ横断ウルトラ・クイズのキャッチ・コピーは知力、体力、時の運でした。
よくよく調べてみたら、これにもう1つ加えた方が良い言葉がありました。
それは家族の協力、と言う言葉でしょうね。
家族を残して、1ヶ月も旅をするわけですから、家族の協力は当然必要です。
しかし、もっと直接家族の協力が無いと、先へ進めないクイズ形式があったのです。
それは番組がスタートして2年目のシカゴでの形式でした。

の時代には某公共放送のテレビ番組で「連想ゲーム」という人気番組がありました。
チーム対抗で、ヒントの言葉を言うと、そこから連想して、何らかの単語を答えるというゲームです。
例えばヒント。お父さんが好きなサラサラ食べる物。
答・お茶づけ。
ピンポーン! といった調子です。
つまり、チーム内のコミュニケーションが勝負の鍵を握っているゲームです。

2回シカゴでは、国際電話連想クイズというのをやりました。
ルールはシカゴと日本12,000Kmを国際電話で結んで、日本のご家族とペアで戦う連想ゲームです。

国際電話

制限時間は90秒。
と、いっても当時の国際電話は「間」が空いて日本で話しているように、スムーズに話が進行しないというリスクがありました。
出題者はシカゴにいる挑戦者です。
一方、解答するのは日本にいるご家族の誰かですが、いきなり夜の夜中に国際電話が掛かってきて、連想クイズをするから答えてくれ、と言われても何が何だか理解が出来ないと言う状況でした。

のクイズが開始されたのは、シカゴ時間が午前9時53分。
日本では夜中の11時53分でしたから、普通は眠りに付いた丁度その頃です。
いきなり電話で起こされて、連想クイズに答えろ、と言われても、
「何?一体どうしたの?」
と混乱状態になるのは想像出来ます。

れは、ウルトラ・クイズも最初の頃でしたから、ご家族だってあまり理解していなかった時代のことです。
考えて見れば、このようなご家族の協力を頂きながら、番組は進行しました。

の時に出された問題は、
ホットドッグ、ナイアガラ、おなら、秋刀魚、バスタオル、タクシー、バスガイド、金魚、香水、茶碗、温泉、といったような問題でした。
あなたなら、どのような連想のヒントを出すでしょうか?

因みに合格ラインは5つ以上で、最高点は9つでした。
初期の頃は、クイズ形式もこのように、他の人気番組の手法も頂いてたのですね。
ちょっとお恥ずかしい、裏話かも? ですね。

決勝戦の問題は特別

メリカ横断ウルトラ・クイズは、毎年数多くのクイズ問題を出題していました。
これらの問題は、毎年クイズ問題を考える作家達が作るのですが、問題の形式を分類すると大別して4種類に分ける事が出来ました。
作るのに1番苦労するのは○×問題でした。
これは2者択一ですから、どちらにも取れそうな、分岐点が難しいのです。
しかも、題材は誰が聞いても、1度で理解できるようなシンプルな問題が求められました。
○×問題で、優れた問題はやはり最初の東京ドームで出題されます。
理由は、より多くの挑戦者に答えてもらいたいので、その様に配分しました。

2番目に数多く作ったのが早押し問題でした。
3番目は変形で、ですが問題、1問多答問題という分野が有りました。
4番目にに機内ペーパー・クイズの3者択一問題。
これは以前にも書きましたが、○×や早押し問題として作られたものを、変形させたので、我々構成者がクイズ作家の作った問題を書き直して出題していました。

出来上がった問題をどの場所で使うのかは、構成者とディレクターで相談しながら配分します。
というのは、担当ディレクターはチェック・ポイントによって、自分の分担が割り振られていますので、気に入った問題は自分の担当場所で使いたいので、チョイスするシステムになっていました。
時には問題の取り合いで、D(ディレクター)同士が対立する事もありました。
でも、その様な時には、先輩が強引に奪ってしまうのはどの職場でも同じでしょうね。

れとは関係なく、決勝地での問題は、私とチーフDで選んでいました。
何故なら決勝問題は、その年のクイズ問題を代表する質が求められます。
つまり、何故この年に出題されるのか、という意味付けが欲しかったのです。
更に、決勝戦だけに難しいね、という難問を適度に入れ込まなければ、視聴者は満足してくれません。

ウルトラクイズ決勝1

これも匙加減が必要で、単に難解なだけでは、視聴者にそっぽを向かれてしまいます
「そんな問題、解るはずないだろ!」ではダメなのです。
難解でも、2人の内、どちらかは正解するだろう、という読みの問題です。
これを挑戦者が正解すると「さすが!」とお茶の間から声が聞こえてきそうな問題を選ばなければなりません。

ウルトラクイズ決勝2

、当時の決勝戦の問題に目を通すと、やっぱり決勝戦に進出した人は「凄いな!」と感心してしまいます。
私達も決勝戦の前夜、最後のクイズ問題の読み合わせで、「この問題は外そう」と最後の最後まで悩んだ難解な問題は沢山ありました。
でも、その様な難問をサラリと正解された時には、私も嬉しくて ピンポーン!と判定音のボタンを押す指に力が入ったものです
クイズ王になった人達は例外なく クイズの達人 でした。

ウルトラクイズ決勝3

電子書籍を出版しました

恐縮ながらPRをさせてください。
メリカ横断ウルトラ・クイズの思い出を毎回書いてきました。
今は現役を離れた身ですが、私は長年に亘り放送作家として、テレビ番組やラジオ番組の構成者として働いてきました。
アメリカ横断ウルトラ・クイズは、その中で出会ったテレビ番組でしたが、そもそも何故放送作家になったのかというと、実は子供の頃に、現代の人にはちょっと理解の出来ないような数奇な体験をしていたのです。それを小学生の頃、作文コンクールに出品し、大きな賞を頂いた事があります。
以来、大人になったら文章を書く仕事に従事したいと思うようになり、運良く放送の世界に潜り込む事が出来たわけです。

は、その作文を本にしようと思い付き、この度、電子書籍で出す事が出来ました。
内容は、アメリカ横断では有りませんが、中国大陸を横断しているのです。

ウルトラクイズは、クイズのサバイバルゲームでしたが、私の場合も命を賭けた「生き残りの旅」で、一歩間違えば命がなくなるような旅をさせられたのです。
サバイバルの旅、という意味ではウルトラクイズと似た部分もあります。
でも、小さな少年が、毎日生きるか死ぬかの旅ですから、罰ゲームの連続みたいなものです。
タイトルは「中国大陸横断・罰ゲームみたいな旅」としたかったのですが、中身はそのようなものです。

のように考えると、ウルトラクイズの原点は、そこにあったのだという気にもなってしまいます。
最後まで読まれると、私がアメリカに憧れを抱いた、原点がお解りになるような流れになっています。
この本は、今の中学生、高校生達に読んで欲しいので、当時の私、小学生の視点で書いてみました。
日本と中国の問題、中国人とはどの様な人達だったのか、だから犬猿の仲なのだ、という事が子供の目で描かれています。
どうか、少しでも興味が持たれたら、お読み頂きたいと思います。
本のタイトルは「荒野の打ち上げ花火」です。

8/17(土)まで無料ですので、お気軽にダウンロードして下さい。
また、kindleはiphoneでもAndroidでもアプリを使って読めます。

荒野の打ち上げ花火/萩原津年武
¥価格不明
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在米日本人のお話

メリカ横断ウルトラ・クイズで、我々がアメリカを訪れていたのは70年代の後半から90年代にかけてでした。
最初の頃は、アメリカ旅行をする日本人もまだ少ない時代でしたが、途中から急激に増えてきました。
最初は、アメリカでロケをしていても、見物のお客さんに日本人は居ませんでしたが、10年を過ぎた頃から、パラパラと日本人の見物客が顔を見せるようになりました。
中にはアメリカに住んでいる方が、我々ロケ隊の動きを知っていて、見学に来る等という事もありました。
今の時代なら、インターネットで情報が飛び交っているので、何も不思議ではありませんが、当時我々は何処からそのような情報を入手するのか不思議でなりませんでした。

る時、アメリカ在住の日本人がどの位の数居るのか調べた事があります。
当時の情報では相当数いて、例えばニューヨークでは、日本人が一寸した社会現象を起こしていました。
それは「ニューヨークにオリエント急行が走る」という記事でした。

オリエント急行

これはクイズ問題になるか? とよくよく読んでみると、日本人の働きバチぶりを皮肉った記事で、アメリカ人は残業というものをあまりしません。
だからニューヨークの地下鉄も、マンハッタンのビジネス街から郊外へ向かう電車は、PM5:00~6:00頃がラッシュ・アワーとなります。

れに対して、勤勉な日本人は残業をするので、7時頃まで働くらしいのです。
となると、8時頃から郊外へ向かう電車に乗るわけですね。
そのため8時過ぎの郊外へ向かう電車は日本人のビジネスマンで混雑する、従ってこれはオリエント急行だ、と記事はまとめていました。

満員電車

折角面白そうな見出しでしたが、これではクイズ問題は出来そうも有りません。

ウルトラクイズではご存知のように、ロケ地では必ずご当地問題というのを出題していました。そのため、こうした情報を集めていましたが、これもご紹介したお話のように、クイズのネタとしては空振りが多かったのです。
1問作るのにも、このような裏の努力がある、という裏話でした。