世界初!海底での早押しクイズ

レイジーと言われようが、非常識と言われようが全く気にしないで、やりたい事をやってのけるアメリカ横断!ウルトラクイズ
の中でも、珍妙、馬鹿っぽさ、どのように表現しても、言い表せないのがカリブ海の海底を会場に行なわれた早押しクイズでした。
所は、バハマの首都、ナッソーの沖合いでした。

↓ナッソーの場所

ナッソー地図

ハマはカリブ諸国の中では、経済的に最も豊で安定した国といわれます。
国としては1,973年にイギリスから独立したばかりで、観光地として欧米人に人気がありました。
昼は真っ白い砂浜の海水浴場があちこちに点在しており、ヨット、水上バイク、パラセールなどマリン・スポーツが盛んです。
一転、陽が落ちれば華やかなショー・ビジネスが幕を開け、カジノで徹夜をする人も多い、と資料にありました。
となれば調査を開始、とばかり我々は現地をロケハンすることにしたのです。
この国はアフリカ系が85%、欧州系白人が12%、残る3%がアジア系及びヒスパニックだそうです。
↓bahamas?nassau ナッソー

bahamas?nassau

々が空港のロビーに出ると、現地の皆さんが素晴らしい民族楽器で癒し系のメロディーを演奏しています。
しばし立ち止まって聞き惚れていたところ、我々を日本からの客と認識したのでしょうね。
突然、坂本九さんの「上を向いて歩こう」を演奏してくれたではありませんか。
もう旅の疲れも一気に吹っ飛び大感激! 
我々ロケハン一行は「この地で絶対にクイズをやるぞ」と、決めたのでした。
に出ると、白い上着に、真紅のラインの入ったスラックス、というオモチャの兵隊さんのような衣装の警察官が交通整理をしています。

↓バハマ警察の音楽隊

バハマ警察_音楽隊

るでお伽の国へやって来たような気分になりました。
さて、それから肝心のロケハンが始まりました。
島のアチコチを見て回るのですが、美しい海岸以外に恰好な材料が見当たりません。
企画会議でこの報告をすれば、

「毎年レギュラーのクイズ地となっている『グアム島』や『ハワイ』と何処が違うの?」
と、冷たくこき下ろされた挙句、「ボツ!(没)」と却下されるのは目に見えています。
こでディレクターのS氏やK氏、コーディネーターのM氏達と焦って、島中をネタ探しに走り回った結果、面白い話を聞き込んだのです。
この地に住む白人の青年が、自分のクルーザーで世界初海底散歩をするツアーを始めたと言うのです。
どんな物なのか早速、実際に目で確かめようと、このツアーに申し込みました。
ルーザーは思ったよりも大型で、スタッフが全員乗り込んでも楽勝です。
30分ほど島の沖合いに出て、目的のポイントに着きました。
すると海底散歩のための、ヘルメットが渡されます。
このヘルメットには船上からパイプで酸素が送られますので、呼吸の心配はありません。
船のスタッフの誘導で、水深5~6メートルの海底まで案内され、そこで記念撮影のためにカメラが構えられました。

ると、あら不思議!
何処からともなく、大きな魚が何匹も現れ、私が手を差し出すとその手に抱きかかえられ、おとなしくしているではありませんか。
水中でフラッシュが焚かれますと、その瞬間、魚はスッと私の手を離れ、カメラマンに向かって泳いで行ったのです。
するとカメラマンは予め瓶に用意した餌を魚に与えます。

魚はそれを銜えて「サンキュー」とでも言いたげに、青い水中に消えていきました。
何と彼らは自然界に棲む魚をそこまで飼育していたのです。

水族館のような施設であれば、このようなことも可能かも知れませんが、大自然の海で不特定多数の魚をここまで仕込むなんて、本当に驚きでした。
↓その時の水中写真です

水中散歩

の人達の協力で、世界初となった海底でのクイズが行なわれたのでした。
5人の挑戦者がいつものように、海の底でもスーツ・ケースを引きずって現れた時には、視聴者の皆さんも、きっと爆笑してくれた事と期待してます。

あの世にも珍妙なシーンは、このようなロケハンによって生まれたものでした。

ウルトラの聖地パンナム・ビル

メリカ横断!ウルトラクイズは1977年番組開始から84年までの8年間、ニューヨークでの決勝戦はパンナム・ビル(現・メットライフビル)の屋上で行なわれました。
このビルの屋上こそ、クイズ挑戦者にとっては憧れの聖地だったのです。
パンナム・ビルはパン・アメリカン航空の本社ビルとして1963年にオープンしたものです。
高さ246メートル、地上59階、マンハッタンの中心部パークアベニュー200に建つこの超高層ビルは、当時世界一高い商業ビルとして有名だったのです。
ビルの南北の面に「PAN AM」のロゴが、東西の面にはパンナムの商標である地球儀のロゴ・マークが描かれていて、世界の航空業界をリードしたパンナムの繁栄の象徴として、威容を誇っていました。
また、屋上のヘリポートからジョン・F・ケネディ国際空港まで、わずか7分で結ぶヘリコプター・サービスが有名でした。
Pan Am Building(パンナムビル)

パンナムビル

ころがウルトラクイズが始まった年の5月に、この屋上で事故が発生したのです。
降着装置の故障で、ローターの回転していたヘリが横転し、ヘリ待ちをしていた4人の乗客が死亡。
更にビルの周辺に飛び散ったローターの破片が、マディソン街の歩行者を直撃し、1人が犠牲となって計5人の死者を出したのです。
アメリカのアクション映画でよく見る、マンハッタンのビル群の上空でヘリコプターが墜落するような出来事が、実際に起きたわけです。
この事故によって、パンナムビルと国際空港を結ぶヘリ・サービスは廃止となりました。

↓パンナムビルの事故

パンナム事故

の事故の時に、ローターが屋上のコンクリートを削り取ったのですが、その生々しい傷跡がそのまま残されている屋上が、我がウルトラクイズ決勝地なのです。
テレビをご覧になった方はご記憶でしょうが、決勝戦に駒を進めた2人の挑戦者が、2機のヘリコプターに分乗してパンナムビルに着陸するシーンがありました。
↓決勝に向かうヘリコプター

決勝に向かうヘリ

6回大会決勝戦で、その挑戦者のヘリコプターに私も同乗した時のことです。
目の下に摩天楼のビル群を望みながら、特徴のあるパンナムビルがグングンと近付いてきました。
2機のヘリは1回でスーッと着地せずに、ビルを何度か旋回して降りるような演出です。
最初に接近した時に、屋上のスタッフが何故か慌ててパイロットに何かを伝えようと手を振っています。
無線機に向かって怒鳴っている様子もハッキリと認める事が出来ます。
隣に座っているパイロットを見るとニヤニヤ笑っています。

事かと思って、2回目に接近するとスタッフが総出で何やら合図を送っているのです。
パイロットは相変わらず笑いながら、もう1機のパイロットと交信している様子です。
そこで、隣を飛行しているヘリを見て驚きました。

機のヘリが並行して飛んでいるのですが、ローターが今にも接触するのではないかと思えるほど、接近しているではありませんか。
パンナムの屋上を見ると、スタッフが1人残らず消えているのです。
つまり、決勝の地は無人の状態になってしまったのです。
で知ったのですが、あまりにヘリ同士が近付くので危険と思い、下から離れるように指示を出したのだそうです。
ところがパイロットは

「平気、平気、腕は確かだぜ。ノー・プロブレム!」
と指示に従わなかったのだそうです。
仕方が無いと、万一に備えてスタッフは屋上から避難した、というのが無人になった真相です。
茶目なアメリカ人らしいエピソードですが、後で冷静に考えるとゾーッとするような思い出でした。
と一緒に危険な体験をさせられたのは、優勝者の高橋直樹氏(当時29歳)と準優勝の高木剛氏(当時21歳)でした。
彼ら2人はこの真実を未だに知らないはずです。
れにしても背景に個性的なクライスラー・ビルやエンパイア・ステート・ビルを望めるパンナムビルの屋上は、ウルトラクイズ・ファンにとっては忘れられない印象的なスポットだったと言えるでしょうね。

↓パンナムビル屋上にて

パンナムビル屋上にて

ガテン系ドクター

ルトラクイズの渡米スタッフは、70名近い団体です。
いや、回によってはもっと多い時もあったかもしれません。
これにアメリカ人の現地スタッフが、5~6名加わって1ヶ月近くも一緒に旅を続けるのですから、それは大変です。
タッフを大きく分けるとプロデューサーやディレクター作家などの制作班、カメラマンや録音技師などの技術班、衣装やセットなどを担当する美術班、それに挑戦者を担当する係りと分ける事が出来ます。
これだけの人間が一緒に旅をしながら、一つの目標に向かうわけですから、チームワークが何より大切なのはみんなが解っています。
だからかどうかは知りませんが、毎年スタッフが大幅に入れ替わる事はありませんでした。
つまり、1年に1回、毎年同じ顔ぶれが集まって番組創りをするという体制を作り上げたのです。
しかも、スタッフはプロ中のプロといっても良い顔ぶればかり。
いや、それはちょっと褒めすぎかな、、、
↓アメリカ横断!ウルトラクイズのスタッフ達

ウルトラクイズのスタッフ達_集合写真

れだけの人間が1カ月間も旅をするとなると、健康問題が心配です。
そこで毎年ドクターに同行をお願いする事にしました。
といっても開業のお医者さんに1ヶ月も休んでもらうなどという事は不可能ですので、大学病院にお願いする事にしたのです。
N大医学部、J医科大学の先生方には本当にお世話になりました。
毎年ドクターがジュラルミン・ケースに医薬品を一杯詰めて、参加してくれるというのが恒例となったのです。
うなると、日頃は健康自慢だったはずのスタッフも
「夜、眠れないです」
「疲れが溜まったようで肩が懲ります」
「胃がもたれたようで、スッキリしないんです」
など、なんだかんだと理由をつけて薬をもらうようになり、多くのスタッフがお世話になりました。
方、番組が視聴率を上げるにつれて、大学でも自ら希望して同行ドクターになろうという先生が増えたと聞いています。
んなある年の事、N大からI先生がやってきました。
我々スタッフは、何でも率先して協力するというのが暗黙のルールです。
例えば空港に到着すると百数十個という機材を詰めたジュラルミン・ケースが出てきます。
これをチェックしながら、トラックに運ぶという重労働が待っています。
ホテルに到着すれば、それを降ろして機材部屋に運ぶ、このような作業は全員が参加でやるようになっています。
しかし、ドクターには敬意を表してこのような重労働は免除というのが、例年の決まりでした。
ところがI先生は、自ら進んで荷物運びを楽しんでいます。
それどころか、本番前のセッティングでは、いつの間にか美術班に紛れ込んで、舞台創りを手伝っています。
そのうちに、自分専用のトンカチを腰に挿してトントン叩くかと思えば、のこぎりを使って舞台装置の材木を切ったりしています。
その姿がまったく違和感なく美術スタッフに溶け込んでいるので、スタッフの間では大人気でした。
「私は外科医なので、切った貼ったは好きなんです」
と本当に楽しそうに、張り切っていました。
のガテン系のI先生が参加したのは第9回で、決勝の地がニューヨークではなくパリでした。
花の都、芸術の町、シャンソンの故郷、パリを形容する言葉は沢山あります。
そのパリの中で、エッフェル塔が最も美しく眺められるのがトルカデロ広場と言われますが、その広場が決勝の地でした。

↓トルカデロ広場

トルカデロ広場

こで決勝戦を終え、翌日は丸1日休日という日。
お洒落な街で買い物をする者、パリ観光を楽しむ者、スタッフは気の合ったグループに分かれパリの街に散りました。
々が3、4人でメトロ(地下鉄)に乗っていると、車内の中央で取っ組み合いの喧嘩が始まっているようです。

↓パリのメトロ 車内

パリ_メトロ社内

よく見ると我らが敬愛するIドクターがフランス人の若者の首を押さえ込み、その周囲にいる仲間らしい男が止めに入っている模様です。
しかも、Iドクター一人で善戦しているではありませんか。
我々は直ぐに駆けつけ、

「ドクター、喧嘩はマズい。手を離して」
と仲裁に入りました。
ドクターは我々が現れたので、ホッとしたのか

「手を離して良いんですかねえ」
と、腕の力を緩めました。
その瞬間、フランス人の男と仲間は周囲の人を掻き分けて、地下鉄のホームへ走り出て行ったのです。
こちらも呆気に取られて、「何があったんですか?」と聞くと、

「彼らは集団のスリなんですよ。財布を抜くところを目撃したので、トッ捕まえたんですが、余計な事だったかな」
とケロリとしているのです。

「ええっ!それじゃ捕まえなくちゃ」

と言っても後の祭り。
既にその時、我々の乗った電車は次の駅に向かって発車していました。
初めて行った外国で、しかも一人でスリの現行犯を抑えつけるとは、本当に頼もしいドクターでした。

あれから20数年経ちましたが、I先生はお元気でしょうかね。

クイズ問題を創る人達

イズ番組ですから、クイズの中味が面白くなければ、視聴者の興味が薄れる事になります。
番組がスタートした当初は、我々企画に参加した放送作家が手分けしてクイズ問題を創っていました。
しかし、思った以上に問題を消化するので、段々と手に負えなくなって来たのです。

こで、放送作家志望の若者を募集し、彼らに問題創りを手伝ってもらう事にしました。
毎年50人近い若者を集めて、彼らにクイズ問題を創る仕事を発注したのです。

たった1行か2行の文章の中に、視聴者が興味を持てる内容を詰め込む作業ですから、放送作家になるための勉強の場としては、最適と言えます。

しかも、安いとはいえ基本給与があった上に、1問採用されれば高い原稿料が支払われるのですから、こんな割の良いアルバイトは無かったと思います。
それでも、途中で脱落する人も多く、最後まで続くのは毎年20人~30人といったところでしょうか。
この経験を経て、現在放送作家として活躍している人も大勢います。
れはさて置き、彼らには毎度厳しい注文を付け、アイディアを絞り出させたものでした。
何故かと言えば、最初は皆さん、作家という職業を軽く考えているのです。

例えば、雑学辞典、雑学百貨、雑学王、といったような雑学本をそのまま引き写して、「私が作りました」という顔をして提出してくるのです。

これは物を書く人間として最低の行為です。
盗作と言われても仕方がありません。
そうした物書きのいろはから教え、数々の楽しい問題を生み出して来ました。

イズ会議では、単なる知識は「教科書問題」と呼ばれて、採用はされません。
そこに「作者の発見」や「意図」或いは同じ知識でも見方を変えて、新たな切り口を見つけることによって、視聴者の興味を促すテクニックが加えられて、初めて採用となるのです。

論、作家だけではなく、ディレクターも、プロデューサーも番組に関わる人間はみんな、クイズ問題を考えて問題会議に提出するようになっています。
そんな会議での出来事をご紹介しましょう。
「王選手の血液型はO型である」
という問題が創られました。
これはアメリカ横断!ウルトラクイズの歴史に残る名問題だと思います。
何故なら、当時の王選手は756号のホームランを打ち、時の人です。
しかもスポーツ・ニュースでは毎日のように取り上げられる人気スターでした。

↓全盛期の王選手

全盛期の王選手

の人気者の王選手O(オー)を掛けて問題にするとは、憎いテクニックと言えましょう。

クイズの挑戦者にすれば2つの見方が発生します。

1つは、王選手がO型だったから問題が成立したのだ、という意見。
クイズ研究会の人たちは大体そんな見方をするでしょうね。
残る1つは、「おー」という言葉遊びで、これは引っ掛け問題であろうと言う意見です。
挑戦者は迷いに迷って、正解者と不正解者が丁度半分に分かれたのです。
これこそ○×問題のお手本となるような問題です。
る時、私はクイズ制作者を集めて、この話をしたのです。
すると次の会議の時に、同じような問題が沢山提出されました。

曰く
「永六輔の血液型はA型である」
「佐藤B作の血液型はB型である」
これは笑い話ではなく、本当の話なのです。
会議では、「ボツ!(没)」と大声で却下されたのは言うまでもありません。
う1つ忘れられない問題がありました。
「マラソンの瀬古利彦選手の前世は飛脚だった。○か×か」
という問題が提出されました。

↓マラソンランナー 瀬古利彦選手

瀬古利彦選手

題会議では爆笑となりました。
当然、問題としては「ボツ!」なのは言うまでもありません。
ところが、作者は納得しません。

「何故ですか? 面白いから皆が笑ったんでしょ。東京ドームでも受けますよ」

自信満々
「キミねぇ。前世の裏付けをどうやって証明するんだ?」

とこちらも冗談の積もりで聞いてみたのです。

すると

「そんなの簡単。霊能者に見てもらえばハッキリします

地球最南端の島で災難に遭う

12回大会は、アメリカ大陸を北から南に縦断するという、大胆なコースをたどったものでした。
北は北極圏のバロー(アラスカ)。
南は『南米大陸の南の果て』ということで探したところ、人間が住む最南端は、フェゴ島(アルゼンチン)にあるウィシュアイアという街である事がわかりました。
↓アメリカ大陸

アメリカ大陸

の島はマゼラン海峡を越えた先にあり、地球1周を試みるヨットマンはみんなお世話になる街だということです。
となれば、どんな街なのか調べる為に、ロケハンに行きました。

々が訪れたのは、春の早い時期でした。
冬の間は1日中真っ暗な暗黒夜なのですが、春ともなれば日射しも明るくなります。
いっても夜が明けるのは午前10時、陽が暮れて暗くなるのが午後3時。
1日で明るいのは5時間しかありません。
なんとこの街に住み着いていた日本人がいたのです。
そこで我々は、彼に現地での案内を兼ねて、スタッフに加わってもらったのです。

は30代の青年で、自らの車を出して案内をしてくれました。
北の果てのバロー(アラスカ)に比べると、緑の樹もありますし、町は西洋文化が浸透しているようで、木造の2階建て、3階建てのカラフルな商店や住宅が並んでいます。
また、街の中には車も結構な数が走っているようです。

々は朝の8時頃ホテルを出発しました。
まだ夜明け前で、辺りは真っ暗です。
それから、島の中をあちこち走り、景色の良い撮影スポットを探しました。
↓ウィシュアイア

ウィシュアイア_Ushuaia_in_early_Spring

い日照時間はアッという間に暮れて、さて街へ帰ろうという時です。
車が突然プスーンという音と同時に動かなくなってしまったのです。
聞けば、街までの距離は相当あって歩いて帰るのは無理との事です。

とはいえ、気温は0℃を下回ってマイナスです。
我々は幸い防寒コートを着ていましたが、ヒーターの無い車は寒さが応えます。
通りがかりの車に助けを求めようとしましたが、考えたら2、3時間の間、他の車とすれ違った記憶がありません。
つまり、街の中以外には人家のない島なので、人里を離れた場所を車が走る事は少ないのです。

の中に街が点在しているのであれば、それを結んで車も移動するでしょうが、街が1つしかないのですから、陽が暮れたら観光にしても何も見えないので、移動する人は居ません。
当時は、今と違って携帯電話も無い時代だったので、連絡のしようがありません。

ると案内の青年が

「歩いて一時間くらいの場所に、夏の間だけ開いている牧場がある。
もしかしたらそこに電話があるかもしれない」
というのです。

して彼は我々を真っ暗な道路に残して、闇の中に消えていきました。
車に取り残されたK氏と私は、腹は減るし、心細いし、、、
鞄を探ると、K氏がいつでも携帯しているウイスキーのボトルがあり、中身も半分ほど残っています。
それから飛行機のサービスで出される、ピーナッツとクッキーの袋が幾つか出てきました。
我々は、真っ暗い車の中で、身体を温めるために酒をチビチビ飲みながら彼の帰るのを待ちました。

「ひょっとすると、遭難したのかもしれないぞ」

気持ちは焦って、幾ら飲んでも酔うような状況ではありません。
待つ事2時間余り、彼がガッカリした表情で帰ってきました。

「牧場の電話機は取り外されていました」

「じゃ、どうなっちゃうの?」

「大丈夫。明日の朝になれば、捜索隊が出るでしょう。それまで寒いけれど我慢しましょう」
ボトルのウイスキーはすでに空っぽです。
「ああ、神様!」と天を仰いだその時です。

っ暗闇の前方に、車のヘッドライトがポツンと見え、次第に近付いてくるではありませんか。
我々3人は車から飛び出し、無我夢中で道路の真ん中で両手をぐるぐると回し、助けを求めました。
らは道路整備のパトロール車でした。
彼らに車の点検をしてもらったところ、なんとガス欠だった、というお粗末なおまけ付き。
こんな深夜まで悲壮な体験をした、と思いながら時計を見ると、まだ午後7時を過ぎたばかりです。
方のちょっとしたトラブルに、3

アメリカ横断!ウルトラクイズの裏話