当ブログの足跡を振り返る

メリカ横断ウルトラクイズのお話をブログで書いてみようと思ったのは昨年の夏のことです。
私も17年に亘って、番組の構成作家として参加した番組なので、表面に出なかった裏話を書き残したいと言う気持ちから、ブログを開設しました。
最初は誰か読んでくださる方がいるのか、手探り状態で書き始めました。
昨年の8月の第1週からでした。
番組は17年も続いたので、書くネタには困ることも無いだろうと軽い気持ちで始めたのです。

書き始めてみると、一寸信じられないような現象が起こりました。
番組が終了してから既に20年近い歳月が経っていたので
「そんな番組知るかよ」
というご意見があると思ったのです。
ところが、当事者の私が忘れているような細かな出来事を覚えていて、それをコメントしてくださる方が実に多いのです。
テレビ番組に40年近く関わってきた私ですが、このような番組はウルトラクイズ以外にありません。
今更ながらウルトラクイズが「お化け番組」と呼ばれていた意味が解ったのです。

初は200人から300人くらいの方からアクセスが有りました。
ランキングを見ると上から数えて50万位代とか60万位代くらいで、ジャンル別では「旅行」「映画・テレビ」などでも10万位代くらいでした。

そうなると、長年TV界で苦労した視聴率競争ではありませんが、少しでも順位を上昇させたいと言う本能が働き、そのための作戦を立てました。
このブログを楽しみにして下さる方は、番組を好きで観て頂いた方なので、定期的に記事をアップしなければならないと言うことです。
そして、現在のように週に3回、月、水、金とスケジュールを固定しました。

すると嬉しい事に、「早く来い来い、月、水、金」という応援コメントを頂き、私も忘れていた昔の出来事を、懸命に思い出そうという日常になったのです。
お陰で、ボケ防止を兼ねて、脳の活性化が出来、助かっています。
読者も2ヶ月を過ぎたあたりから急激に増えて、毎回5,000~6,000位代のアクセスを頂くようになって、今では1週間の合計が18,000~20,000位代を上下するまでに増えてきました。
そうなると全体のランクも上がって、最近は3,000位とか4,000位代といった辺りに定着しているようです。
ジャンル別も先週は40位代~50位代にまで伸びて来ました。

最近では連載のコラムを担当している気分で、今までに書き上げた数を数えたら194本も書いていたので、自分でもビックリです。

れにしても、これだけの読者が付いてくださったのは、何と言っても「アメリカ横断ウルトラクイズ」というお化け番組に関わったお陰です。
これだけ多くの読者の皆さんが、楽しんで下さるとなると、別の考えが頭をよぎりました。
もし、この皆さんが私の電子書籍
「霞ヶ関ブラックボックス・死ぬのは奴らだ」

霞ヶ関ブラック・ボックス 死ぬのは奴らだ(上) (ヤメ官・小杉忍シリーズ)/萩原 津年武
¥価格不明
Amazon.co.jp

を読んでくださると、もっと嬉しいなあ、という思いです。
ちょっと厚かましい売り込みでしたかね。
これは私の書下ろしの推理小説です。
今の世の中、自分で売り込まないと誰も手伝ってくれなので、お許しを!

機内ペーパー・クイズの採点方

メリカ横断ウルトラクイズは沢山の方々が参加した番組だったので、今だから知りたい疑問もいろいろあると思います。
その様な中で、ウルトラ・ファンの中でささやかれていた噂が有ります。
最近もコメントで戴きましたので、お答えしたいと思います。
それは、機内ペーパー・クイズの答えの配列に関してでした。
第2回のクイズ王 ?氏が発見したとの事で、答の配列が第1回の時は20問毎に同じ配列になっていた。
2回目以降は40問毎に同じ配列だったというのです。
これは、採点をしやすいように、その様な配列だったのか? と、いう質問でした。

機内クイズ

の私には真相は解りませんが、結果的に考えれば、その様な意見を否定できないと思います。
何故なら、あの時代は全てアナログの手作業だったから、短い時間に、少ないスタッフが効率よく採点しなければなりません。
採点のやり方は、回答用紙の上に、カラーのプラスチック板を重ね、その板に正解の番号の位置に窓が開けられていました。
つまり、その窓から1、2、3、の数字が覗けるようになっていて、正解の場合だけ数字にマーカーで、色が塗られているという方式です。
これなら、色の塗られた数を数える事で点数が判明します。
本来なら、800問分のカラーのプラスチック板を用意するべきでしょうが、それを省略し同じ採点板を流用する事も可能でしょうね。
もし、その様に仮定すれば、第1回の時は20問毎に同じ配列で使いまわしが可能だったという事です。
2回目以降は40問毎に同じ配列、とのご指摘なので、そうだったのかなあ、という感想しか言えません。
 
これは当時の担当者が、知恵を絞って、考えた効率的な作業だったと思いますので、現在の私がそれを非難する気持ちは毛頭有りません。
何故なら、例え正解が一定の法則で同じ配列だったとしても、この事が、挑戦者に不公平な結果を与えるとも考えられませんからね。
そのような事より、挑戦者にしてみれば目の前の問題に集中し、正解の配列を気にするような余裕は無かったはずです。
だから良かったのだ、と居直っている訳ではありません。

組を細かく分析すれば、スタッフの細かい仕掛けが見えて来るでしょうが、このご指摘もそのようなの1つと推察します。
ただ、反省点として20問とか40問で、同じ配列の繰り返しというのは、ちょっとというか、手抜きな感は免れないでしょうね。
多分、その後の会議でも議題に上がり、徐々に改良されて行ったのだと思います。
何となく、マジックのネタを見抜かれたようで、お恥ずかしいお話ですが、これも初期の頃の経験不足の失敗と笑ってお許し頂きたいです。

問題会議の様子

メリカ横断ウルトラクイズの人気の理由にはクイズ問題の面白さがあったと思います。

問題イメージ

挑戦者の皆さんもその辺に関しては、ご理解いただき、その問題に挑戦する気構えで参加してくださいました。
では、そのクイズ問題を選考するクイズ会議では、どの様な会話が交わされていたのか、記憶を手繰ってご紹介してみたいと思います。

にも書きましたがクイズ会議の主な出席者は、プロデューサーが2、3名、ディレクターが5、6名、構成作家が4、5名。
この会議には、クイズを作る問題作家は出席しませんでした。
何故なら、問題に対して厳し過ぎる評価が遠慮なく発言されるので、そのような言葉を直接聞かされたら、ショックで仕事が続けられなくなってしまうと心配したからです。
私はクイズ問題の責任者でしたから、どんな事があっても期間内に、決められた数のクイズ問題を揃えなければなりません。
ですから、良いクイズ問題作家を育てなければならないので、彼らを傷つけるような場面に参加させる事は避けたのです。

の様な中でクイズ問題会議は行われましたが、参加者が作られた問題を批判してばかりでは進歩がないので、或る時スタッフは全員が問題を作るように注文しました。
運良くこの提案は受け入れられて、スタッフ全員に問題制作の仕事を割り振りました。
しかし、このやり方は一時的なもので長く続きませんでした。
でも、効果はあって、問題作りの大変さを全員が知る事になって、選考の厳しさに変化が出てきました。
つまり、自分に興味が無い問題は何でも「没」拒否するような態度が減ってきたのです。
その様な中で、次第に問題選考の基準が確立していきました。
前にも書きましたが、ストレートの知識は教科書問題、という判定で拒否されてしまいます。
また、あまりに細かい知識を問う問題は「重箱の角」をほじるようなもので拒否されてしまいます。
問題点に興味が沸かない問題も当然「没」という判定が下されます。

その様な中で、良く拒否の理由として挙げられた言葉を思い出しました。
「これは俺の母親は知らない」
という言葉でした。
この発言をしたのが、当時のチーフディレクターだったので、誰も反論できませんでした。

「冗談じゃない! あんたの母親のために番組を作っている訳ではない」
と反論が出そうです。
しかし、当時のチーフディレクターは絶対的な権力者でしたので、誰1人反論はしませんでした。
私もこの発言に強い反発を覚えたのですが、待てよ、と実は心に響くものがあったのです。
やっぱり、この男は只者では無いという感情です。

はこの時、自分の母親という言い方をしたのですが、本心は
「お年寄りには興味が無い問題だろ」
と言いたかったのでしょう。
これはクイズ問題の本質に関わる意見です。
つまり、このクイズ番組は知識欲が旺盛なクイズマニアだけでなく、老いも若きも誰でも楽しめるレベルでなければならない、という事を一言で表した発言だったのです。

彼は時々この言葉を使いましたが、私も同感だったケースが多かったのを思い出します。
クイズ問題は、職業や年齢、性別を超え、誰でもが興味を持つ問題が理想です。
その中で難易度があるのは当然で、最初は易しく、勝ち進むにつれて難しくなって行く、そのような強弱を付けた問題の配列で番組は進行しました。
クイズ問題会議は、私にとっては毎回が戦い だったのです。

indian

クイズの問題の陰にあるアメリカの歴史

メリカ横断ウルトラ・クイズは、アメリカが好きな皆さんが観て下さった番組だと私は思っています。
だから、クイズ問題の中にもアメリカに関する問題が沢山出題されていました。
問題そのものの解説は、時々しか入れるチャンスはありませんでしたが、時には番組内で解説するような場面もありました。
私達、クイズ問題の裏付けを取る作業では1問毎に解説を書き込み、何時でも福留さんが解説を入れられるように、問題用紙には丁寧な解説文を書き込んでおきましたので、時々はそれを読んでいたわけです。

ところで、当時の問題を読み返して見ると、第15回の機内ペーパー・クイズの第1問に次のような問題がありました。

・アメリカの名物、1番最初に完成したのは?
① 金門橋

GoldenGateBridge

② 自由の女神

Statue_of_Liberty

③ エンパイアステートビル

エンパイヤステートビル

という問題が有りました。
クイズの問題としては簡単な1問と言えるでしょう。
しかし、この問題をチェックするメンバーは、この3つの建造物に関して詳しく調査しています。
3者択一問題ですから、解説文は残っていませんが、当時を振り返って、多分次のような調査報告が纏められていたと思います。

解説文
正解は②で、1,886年の完成です。
自由の女神に関しては、皆さんが研究していたので、ほとんどの方が正解していたはずです。

追記・金門橋は1,937年の完成で、サンフランシスコにあって、世界で有名な観光名所である。
エンパイアステートビルビルは1,931年に竣工したが、世界恐慌の影響でオフィス部分は1,940年代まで、多くが空室だった。
そのため、エンプティー(空っぽ)ステートビルとからかわれて呼ばれていた時期が長く続いていた、という歴史があったのである。

みに、このビルは当時世界一高いビルとして知名度が高かったクライスラービルから、その称号を奪うのが目的で作られたものであった。
その目的は達成され、1,972年にワールドトレードセンター・ノースタワーが完成されるまでの42年間世界一の称号を守ったのである。
?ワールドトレードセンターは、ご存じの世界貿易センタービルで、あの9・11のテロで崩壊したビルの事です。

クイズ問題には、この様に1問毎に調査がなされていたので、これらをまとめて書籍に残そうという話も出ましたが、当時は私も本職の放送作家の仕事が忙しかったので、その様な余裕が有りませんでした。
もしも、ウルトラクイズ問題・雑学辞典のような本にまとめれば、ヒットしたかもしれませんね。
でも、この様なのを捕らぬ狸の皮算用というのでしょうね。

狸の皮算用

自由の女神の身体検査

メリカ横断ウルトラ・クイズでは、自由の女神が番組の象徴的な存在でした。

back3

イズの第1問が自由の女神に関する問題だったのがその理由です。
番組に出たい挑戦者は、これをクリアしなければ参加出来ないので、皆さんが自由の女神の情報を集める事に専念していたのでした。
クイズ問題としては出題されていませんが、我々は自由の女神様の情報を沢山収集していましたので、その1部として、今日は女神様の身体に関するデーターをご紹介してみましょう。
その前に、閉館されていた自由の女神が、再開されたそうですね。
それにしてもこの騒動で、1日に600万円も管理費が掛かるという事がニュースで流れ、びっくりしました。
内訳は解りませんが公園の管理って、本当にお金が掛かるのですね。

もそもこの女神像は、アメリカとの友好関係を記念して、フランスから贈られたもので、献呈式は1,886年に行われました。
この式典に日本人が招待されたという記録は残念ながら残っていませんでした。
これはクイズの問題になりましたので、記憶にある方もいるでしょうね。
また、この式典は日本の新聞で報じられていました。

の制作はフランスの彫刻家バルトルディで、モデルとなったのは彼の母親だと伝えられています。
像は右手を高くかざし、自由への道を照らす松明を持っています。
一方、左手には独立宣言を表す本を抱え、独立宣言の日付け1,776年7月4日が刻まれています。

像の台座はアメリカ国民の献金で作られ、台座から松明までの高さは約92メートルです。
更に細かく言えば、手の長さは約5メートル、人差指の長さは約2・4メートル、鼻の長さは約1・4メートル、口の幅約91センチ、そして左手に持つ本は長さが約7・2メートル、幅約4・1メートル、という数字でした。

また、特筆したいのは像の内部の骨組みは、エッフェル塔で有名なエッフェルさんが設計した巨大な鉄柱で支えているのだそうです。

エッフェル塔

この資料は、当時我々がアメリカ観光局から入手したもので、一般にはあまり知られていませんでしたが、途中で自由の女神に関する書籍が沢山出版されたので、その中には当然書かれていたでしょうね。

1つの銅像が数々の本になり、そのデーターを細かく記憶する人達が沢山いた、これも女神様ならではの珍しい現象でしょうね。
今的に表現するならギネス認定物かも知れません。