○×誤問題の指摘にお答えします

メリカ横断ウルトラクイズのブログで、噂話の中で出たお話にお答えします。
最初の情報は、第4回の何問目かでカットされた問題として「日本では太陽が頭の真上に来ることはない」と出題され、正解は×なのに○だったという噂でした。
私はカットされた問題の事まで現在調べようがないので、水掛け論になる話とお答えしました。
すると別の方から第4回の7問目に出ている、間違った答えだから、証拠もあるのだし私が認めて謝るべきとのご意見を頂きました。

私が第4回7問目を調べると確かにその問題が出題されていました。
正解もとなっていました。
その意味では問題制作の責任者だった私が謝って、この問題に幕を引くという方法も有ります。

でも、ここからは私の弁明です。
最初のコメントがあえてカットされた問題と指摘している理由は何でしょうか?
都合の悪い事は編集でカットして隠している。
そのよう意見だったので、私は問題そのものの記憶が無いとお答えしました。
最初から7問目に出されていた問題が誤問題とのクレームであれば、調べて正当な回答をする事ができたのです。
いま、出題された事実が判明したので、ハッキリお答えします。
放送上でもカットはされていませんでした。

この問題は最初から我々はが正解と判断して出題しているのです。
つまり、クイズは一般的な常識です。
沖の鳥島が東京都の小笠原村に属する日本最南端のサンゴ礁である事は、この問題の裏取りをしていた時に知りました。
厳密には日本である事も事実で承知しています。
でも、日本と言えば普通は人間の住んでいる場所を指すのではないですか。
我々の中で、岩礁は島とは言わないだろう!という意見も有りました。
ウルトラクイズには審査委員会というものがあって、正否の決定はここで行われます。
この問題も、当然審査委員会で討議され、番組としては○で行こうと決まった問題なのです。

我々は単なる海の上に浮かぶサンゴ礁を題材に、「この真上に太陽が来ることはない」など、あり得ない状況を問題にするはずがありません。
従って、この問題はチェックの段階で「沖の鳥島」という調査は上がっていましたが、あえて採用したという経緯があります。

勿論、厳密に言えば沖の鳥島は日本の領地でしょう。
だから×としたのでは、○に答えた人が収まらないでしょうね。
クイズ会議では、その様なクレームがあるという事も予想していましたので、我々は理論武装の準備もしていました。
しかし、当時は全くクレームが来なかったのです。

クイズの正解には、重箱の角をほじくるような事でも隙があってはならないと思ってチェックをしていました。
この問題は、その隙を突いた噂話で、論議をすれば私の負けになるでしょう。
でも、当時は「単なる岩礁を日本と称して、面白い問題を没にするようなは避けよう」というのが結論でした。
岩礁は岩礁であり、それ以上でもそれ以下でもない、これが我々の意見でした。
現在のご時世であれば、ナーバスになるような問題でしょうが、当時は領土問題で世間が騒ぐこともあまりなかったのです。

事情はそのような訳ですから、この問題は確かに存在しました。
ですから、「そのような問題は無かった」と私がコメントしてしまった事に関しては、ごめんなさい。
しかしながら、問題の正誤に誤りがあった、という事に関しては、認めるわけにはいかないのです。
何故かと言えば、番組が承知で出題した問題を、私個人の判断で誤問題と認めてしまったら、他のスタッフを否定する事になってしまいます。
屁理屈のように聞こえるでしょうが、問題に誤りはなかった、これが私の結論です。

沖ノ鳥島

最もウンの強かったクイズ王は?

メリカ横断ウルトラクイズの歴史の中で、チャンピオンに輝いた人は17名いました。
この中で一番クイズの強かったのは誰か?
これはチャンピオン大会をやらない限り、答えは出ないのは先日のブログで記した通りです。
でも、知力、体力、時の運を売り物にしたウルトラクイズですから、
チャンピオンの中で最も運の強かったチャンピオンは? 
と問われれば答える事が出来ます。
チャンピオンの中には、1度は敗れながらも敗者復活で勝ち戻ってきた人が何人かいました。
第12回の瀬間康仁さん(当時立命館大学4年)が先日コメントを下さって、東京ドームで一度は敗れたが、補欠で勝上って来たと知らせてくれました。
補欠でチャンスを掴み、後は実力で生き残ったのですから大したものです。
それで、他にもその様な人がいないか調べたところ、もっと運が強い人が居たのが解りました。
それは、第11回のチャンピオンになった稲川良夫さん(当時25、会社員)だったのです。

の年は、敗者復活の出血大サービスで行こうというのが狙いで、東京ドームで100人が勝ち残った後、
「生まれて一度も歯医者さんにお世話になった事の無い人」
を復活させたのです。
敗者に無縁は良い事だ、訳の解らない理屈をつけたら、4人の人が名乗りを挙げました。
従って104名が成田へ向かうはずでしたが、この年は成田へ行く前に国内でクイズを行い先ず一人が敗者になりました。
空港に辿り着いた103人の中からジャンケンで52人が敗退、普通はこれで帰宅の途に付いて頂きます。

稲川良夫さんもジャンケンで敗れ、第一回目の敗者になりました。
ところが、ジャンケンで負けた51人に国内クイズで敗れた一人を加えて52人を全員飛行機に乗せてしまったのです。
ええ? 負けた人間をグアムへ?
いや、ウルトラはそれ程甘くは有りません。
ジャンケン敗者を乗せた飛行機が向かったのは名古屋空港でした。
これで終わり、尾張名古屋とつまらないダジャレで、名古屋まで行って敗者復活戦を行ったのです。
名古屋市内をアチコチ観光しながら、目的地へたどり着いたのです。
そこは名鉄小牧駅前、実はこの地にニューヨークという名のパチンコ店があって、しかもビルの屋上に自由の女神像が建っていたのです。
このオチを使いたいばっかりに、この地まで52人を引き連れてきたのですから、費用といい労力といい馬鹿げた浪費でした。でも、テレビを見た方々は大笑いしてくれ、取りあえず成功でした。
ここでご当地クイズをやり3名が復活しました。
この中に稲川良夫さんが居たのです。
復活した3名は別の便で、グアムを目指します。

らがグアムに到着した時には先発部隊はすでにホテルでスヤスヤお休みになっていました。
先発隊は機内ペーパークイズという難関を通過した人々です。
ここへ遅れて、追いついた3人ですが泊まるホテルがないのです。
ならばお休み中の誰かと交代して頂こうという筋書きです。
機内ペーパーテストで成績の下から3人を叩き起こし、彼らと追いついた3人の敗者復活組と合計6名で、ホテルの枕争奪早押しクイズを行ったのです。
寝ているところをいきなり叩き起こして、クイズを仕掛ける、なんと非情な所業でしょう。
でも、敗者復活組は機内ペーパーテストを受けていないのですから、その洗礼を受けた人より強くなければいけません。
哀れ、生贄となった3人の子羊は、寝ぼけまなこの意識朦朧状態、結局手も足も出ないで3人仲良く完敗となりました。
この様な運の強さを生かして、その後も次々と勝ち進み、準決勝ではゲスト出演した初代クイズ王を破って決勝に駒を進めました。

チャンピオンは知力、体力、それに加え 時の運 3拍子揃っていないと難しいのです。

金運

チャンピオンの中で強いのは誰?

メリカ横断ウルトラ・クイズはアメリカ各地を旅しながら予選を行い、ニューヨークで決勝戦を行うというのが毎年の流れでした。
決勝戦で勝ったチャンピオンがその回で一番強い人だったのは、誰でも理解できます。

ところで私達関係者は良く次のような質問を受ける事が有りました。
「チャンピオンの中で本当に一番強かった人は誰?」

king

この様な質問に私は個人名で答えた経験はありませんが、関係者の中には第○回の○○さん、と具体名を挙げて答えていた人がいたのは覚えています。
しかし、この様な答をするのは大きな間違いである、という出来事が有りました。
本来チャンピオンを一同に集めて、チャンピオン大会を行わない限り順番を我々が口にするべきではなかったのです。
第11回に、以下の様な事が有りました。
この回は、それまでの固定された概念を崩して新しい試みに挑戦しようとスタッフは燃えていました。
理由は前回のブログでご紹介した通り、制作スタッフがガラリと入れ替わったためです。

決勝はマンハッタンを目の前にしたハドソン川の対岸ニュージャージーにクイズ会場を設営しました。
河を挟んだ対岸は摩天楼の世界。
当時は世界貿易センターのツインビルがそびえ立ち、これぞ憧れのニューヨークと気分を高揚させる演出です。
この摩天楼の上空に一台のヘリコプターが現れ、グングンとクイズ会場に接近して来ます。
着陸したヘリから登場したのはウルトラクイズでは当時伝説の人になっていた第一回の優勝者、松尾清三さん(当時48歳)でした。
記念するべき第一回のチャンピオンで、この方の胸を借りて、関門を突破しようという仕掛けです。
スタッフ会議ではこの役目をどなたにしようか、多数の意見が衝突し、決を採って松尾さんが選ばれたのです。

ルールは4人の挑戦者が順番で松尾さんと一対一の早押しクイズを行います。
5本勝負で彼に勝ち越した人だけがニューヨークへ駒を進める事が出来るというものでした。
もし、3人でも4人でも松尾さんに勝ち越せばみんな決勝戦に進めるという危険な賭けでもありました。
仮に全員が負けてしまったら一体どうなるのだろう?
番組の構成者として、私はドキドキの心境でクイズは開始されました。

この対戦の結果は?
我々スタッフの予想を大きく狂わせ、何と3人が伝説のチャンピオンを破ってニューヨークへ駒を進めたのです。
つまり、10年という歳月が松尾さんの力を衰えさせたのか、はたまた今回の挑戦者の力が強かったのか、多分両方の要素があったと思います。
現役チャレンジャーはみなさん日頃から鍛えて力をつけていたのでしょう。
そのような現実を無視して、松尾さんが一番強いチャンピオンと判断した我々が間違っていたのを証明する出来事だったのです。
結論を言えば、どの回のチャンピオンも素晴らしい実力者だったのです。
その人達を勝負もさせないで、「誰々さんが強い」など番組関係者が無責任に口にするべきではありません。
そのことをハッキリと証明した準決勝でした。

近は他局のクイズ番組でも、時々チャンピオン大会をやっていますが、番組の構成上優勝者を予想したりする手法も有りますが、戦ってみなければ結果は解らな、これが正解です。

新装開店の気分だった第11回

メリカ横断ウルトラ・クイズは通算17回放送されています。
一年一度の割合ですから16年プラス1年で17年間に亘って放送しました。
ややこしい言い方ですが、16回で一旦終了し、その後「今世紀最後のウルトラ・クイズ」という番組が一つ加わったので、通算は17回と数えています。
これ程続いた番組ですが、途中で新装開店のような出来事が有りました。

組がスタートした時はテレビマンユニオンという制作会社が制作協力していました。
この会社は、日本に数あるテレビ制作会社の中で、1、2を争う優秀な会社です。
プロデューサーもディレクターも優秀な人材が多く、その中でも選りすぐったメンバーが参加してくれました。
10年間で多少はスタッフの入れ替えは有ったものの、慣れたメンバーが最初の10年間は参加してくれたのです。
誤解の無いように書きますと、日本テレビからも、重要な職分としてP(プロデューサー)D(ディレクター)も参加していましたので、混成部隊と呼んで良い状態でしょうね。
制作会議では一番組のスタッフとして、局員、非局員の差別なく激しい論戦を戦わせ、番組作りをしていました。
今思えば、本当に熱い戦いともいえる会議で、あれがあったからこそ、あのような破天荒な番組に育ったのだとおもいます。
私達放送作家は、クイズ問題とクイズ形式を考えるスタッフとして最初から参加していました。

ころが10回を終えたところで、テレビマンユニオンが社内事情で番組を降リる事になってしまったのです。
となると制作スタッフが大幅に入れ替わる事になります。
巷間では「これでウルトラクイズは終わってしまうだろう」と囁かれました。
しかし、その頃には日本テレビ内に新しいディレクターが立派に育っていました。
彼らにすれば意地と誇りがありますから、「その様な噂は吹き飛ばしてやる」とばかり、力を入れて新しい試みをどんどん実行していきました。
これが中弛みを吹き飛ばすカンフル剤の役目になったのでしょう。

第一に変わった事は、観光旅行でお目にかかれるようなアメリカは卒業して、現代アメリカの活力とアメリカを支える原動力に触れながら、クイズの旅をしようというように目的の変化です。
その様な目線で見ると、ロスアンゼルスでは映画「サハラ戦車隊」や人気テレビ・シリーズ「コンバット」で活躍した本物の戦車をズラリと並べ、「戦車ロシアンルーレット」というクイズを行いました。
クイズに正解すると、戦車砲を発砲出来るというものです。(勿論空砲です)

サハラ戦車隊

また、次のパームスプリングスでは、世界一の風力発電機が並ぶ中でクイズを行いました。
今でこそ風力発電機も珍しくありませんが、当時のパームスプリングスの景色は巨大な風車が何万機と砂漠の中に建ち並び、この光景だけでアメリカの国力の凄さを感じたものでした。

パームスプリングス

結論として、ウルトラクイズは11回目から方向が変化したという事です。
但し、構成、問題制作、主だった技術スタッフはほとんどオリジナル・メンバーで最初から最後まで参加していました。
これを古狸というのでしょうかね。

即席で作ったクイズ問題

メリカ横断ウルトラ・クイズでは、クイズ問題を大勢のクイズ問題作家が作っていました。
数多く作られた問題の中から厳選された問題だけに、放送された中には面白い問題が沢山あったと思います。
ところが、たった1回だけ問題を事前に用意せずに、ロケ現場でご当地問題を作って出題するという、きわどい実験をした事がありました。
それは第14回のアーチーズで、実行されました。

Arches

ロケ現場に立ち会っている作家は私と若い放送作家の2人だけです。
それに司会の福留さんが加わって3人で、このチェックポイントの問題を全部作らなければなりません。
「そんなの危険すぎる!」
とアイディア会議の段階で私は反対しました。
でも、多勢に無勢、結局この案が通ってしまったのです。

ーチーズは当時日本人観光客にはあまり知られていない場所ですが、真っ赤な岩石が天に向かって数多くそびえ立ち、奇怪な景色を作り上げている場所なのです。
風や雨、雪などの自然現象が何万年もかけて作り上げた不思議な光景が延々と続きます。
中には岩が風化されて、大きな穴をあけ「アーチ」をつくりあげ、これが地名になったと言われる大きなアーチがありました。

Delicate_Arch

この様な景色の中を320km、一日掛かりでクイズをしながら走ろうというものでした。
私達クイズ問題作制班は、挑戦者を乗せたバスよりも30分早くジープで先発しました。
そして、道行く人や住民を取材しながら、聞いた話の中からクイズ問題を作るという無謀とも思える実験を始めたのです。
場所柄、街が有ったり、沢山の住民が住んでいるという気配は有りません。
その様な環境の中で、キャンプ中の旅行者や農家へ立ち寄り、話を聞きながらクイズ問題を作って本番に備えたのでした。

まに街道脇に店があるかと思えば、ゴーストタウンとなったガソリンスタンドだったりします。
勿論、人の気配はないので取材は出来ません。
このような時は、通りかかった地元のオジサンのトラックを止め、話を聞いて問題を作りました。
さらにキャンプ場を見つけては、そこでキャンプ中の人達を取材。
畑が有れば農夫を取材、このような少ない材料でクイズ問題を作り続けたのです。

今思い返すと、冷や汗をかきそうな実験でしたが、ご当地問題としては、少しは面白い情報も入れ込んで、3択問題を作り、無事に乗り越える事ができました。
普通一つのチェックポイントで、早押しクイズならば150問から200問用意します。
それを省略して、現場で問題を作る、などという危険な賭けが出来たのも、ウルトラのスタッフが怖いもの知らずだったからかも知れません。
事前に調査してあったのは、次の問題だけでした。

・ここアーチーズでロケをした映画はどれ?

1、猿の惑星
2、駅馬車
3、インディー・ジョーンズ

・3
この地が映画インディー・ジョーンズのロケ地だったという事だけでした。
因みに「猿の惑星」は第7回で行ったデス・バレー。
駅馬車は6回のモニュメント・バレーで、ロケが行われていました。